マタイによる福音書において、主イエスは山上の説教をされた後、人々の病や苦しみを癒されました。8~9章と、2章分の長さで主イエスの御業が描かれております。そして10章では、弟子たちを派遣するという物語に変わっていく。本日の箇所は、主イエスが群衆になさった御業の締めくくりの部分と言ってもよい箇所です。見えなかった目が開かれる箇所です。主イエスは多くの人びとをご覧になられました。多くの人びとと出会いました。主イエスは彼らが飼い主のいない羊のような有様であることをご覧になられ深く憐れまれた。一方で、あまり喜んでいない人々も描かれています。ファリサイ派の人々です。彼らは、「あの男は悪霊の頭の力によって悪霊を追い出しているのだ」とつぶやく。マタイ福音書8~9章では、憐れみを求める人々と、憐れみを持つことのできない人々と、本当の憐れみをお持ちのお方が、行き交うようにして描かれております。
その中で本日の箇所では、二人の盲人が登場します。盲人たちの目が開かれる。聖書に親しんでおりますと、目の見えない人というのは意外と多くの箇所で出てくる。ですから、ふと「あぁ、聞いたことのある聖書箇所だ」と思うかもしれません。ですが、考えてみますと、私たちもまた肉眼で主イエスを見ることは許されておりません。ですから、私たちもまた「神さま、どこにおられるのか?」と思うこともあります。そんなとき、聖書に登場する盲人と全く同じ立場に置かれているのではないか。そのように私は思います。この二人の盲人に起こった出来事は、私たちにも起こる出来事です。
二人の盲人は叫びました。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」主イエスは答えます。「わたしにできると信じるのか」と。何をでしょうか。目を開くことでしょうか。主イエスが問われたのは、必ずしも目を開けられると信じるのか、ということではないと思うのです。もっと本質的な、そして盲人の叫びに対して率直な応答として、主イエスは問われました。「わたしがあなたがたを憐れむことができると信じるのか」と。主イエスは何か解決を与えてくださるだけのようなお方ではない。主イエスは、深い憐れみをもって、あなたの苦しみを共に担う者として、あなたに接しようとしている。このことを信じるのか。主イエスが問われている。言葉が詰まりそうになります。本当にあなたは私のことを憐れんでくださるのですか?私はあなたの憐れみを受けるにふさわしい者ではありません。言い訳や、言い逃れをしたくなる思いも出てくる。しかし、二人の盲人たちは、応えます。「はい、主よ」と。シンプルに応えます。主イエスは憐れみをもって、私たちに接しようとされている。そのことを信じるか。問われたとき、私たちも「はい、主よ」と応答するのです。それ以上でもなく、他の言い訳を述べる必要もない。私たちもまた、「はい、主よ」と応える者となりたい。「はい、主よ」と答えつつ、憐れみ深い主イエスと共に今週も歩むことができますように。