2019年1月20日日曜日

マタイによる福音書6:5〜13「お祈りをしてみよう!」


 礼拝で必ず祈る「主の祈り」。主イエス・キリストが、御自分の弟子である私たちに教えてくださった祈りです。このように言って、主は祈りを教えてくださいました。「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、…』」。彼らのまねをしてはならない、と言います。彼らとは誰のことなのか?人に見てもらおうとして祈る偽善者や、くどくどと言葉数ばかりを増やす異邦人のことです。そういう祈りは、最初から神を信頼していません。神様が聞いてくださることよりも人から誉められることの方が重要だったり、祈りを聞いてくれているかどうか分からなくて不安だから言葉数ばかりが増えたり。いずれにしても、神様を信頼していないのです。「彼らのまねをしてはならない」と主は言われます。では、どう祈れば良いのか?「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたにひつようなものをご存じなのだ」。父として、神を信頼してほしい。あなたがたに必要なものを知っていてくださる神を信頼してほしい。主イエスは、そうやって私たちに祈りを教えてくださったのです。
 最近、私の1歳の娘が、私の方を向いて「お父ちゃん」と呼ぶようになりました。他の人にはただの喃語(なんご)でしかないかもしれませんが、私にはそう聞こえます。主イエス御自身の祈りは、神様を「アッバ」とお呼びするものでした。「アッバ」というのは、まさに喃語ともはっきりした言葉ともつかないような、父親への呼びかけです。主イエスは、わたしと一緒に神様を「父」と呼ぼう、と言ってくださいます。小さな子どもが全幅の信頼を置いて父を呼び求め、その顔を見るだけではじけるような笑顔を見せるようにして、神を父と呼ぼうと教えてくださいます。
 神様を「父」とお呼びすることに、私たちの心はときめいているのでしょうか?ただの決まり文句になってしまっているとしたら、とても悲しいことです。神様を父と呼べるというのは、特別なことです。私たちが神様の子どもになっているということなのですから!
 もしも「父」と呼ぶことが喜びではないとしたら、私たちの父親経験の痛みからきているのかもしれません。いつも不機嫌な父親。家にいたためしがない父親。わがままな父親。冷たい父親。あるいは、自分自身が父親になってみて、父というのは思っていたほど偉大な存在ではないとわが身を省みて言わざるを得ない。そういうこともあるかもしれません。
 しかし、聖書が私たちに紹介する父としての神様のお姿は、私たちの常識からすると破格の愛に満ちた方です。例えば、失われた息子の譬え話に登場する父親です。息子が自分が将来受けるはずの財産の分け前を要求し、受け取ると遠い外国に行って、放蕩の限りを尽くして無駄遣いし、やがて一文無しになります。惨めな姿で帰ってきた息子を、父親は遠くから見つけて走り寄って抱きしめます。主イエスは、この父親の姿に父なる神様の愛を教えてくださいました。神様の父としての愛は、私たちが思ってもみなかったような破格の愛です。この方を、私たちは「父」と呼んで祈ることができる。主イエスは、このようにして、私たちを祈りへと招いておられます。

2025年1月12日の聖句

今週の聖句: 神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。(ローマ8:14) 今日の聖句: 憎しみはいさかいを引き起こし、愛は背きのすべてを覆い隠す。(箴言10:12) 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりまし...