今日の通読箇所:マタイによる福音書27:1-31、出エジプト記13-14、詩編44
出エジプト記13-14;
旧約聖書の最初にある五つの書を「律法」と呼びます。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つです。これから読んでいくとすぐに分かりますが、この出エジプト記の後半以降は、まさに「律法」という内容になります。しかし、年が明けてからこれまで読んできたところを思い出してみると、律法というよりも物語といった感があります。日本の六法全書を見ても、物語の文体で書いた法はありません。どうして、律法なのに物語が書かれているのでしょうか?
今朝の御言葉を読むと、その理由がよく分かります。「あなたがたは、エジプトの地、奴隷の家から出たこの日を覚えなさい。主は力強い手によって、あなたがたをここから導き出されたからである。種を入れたパンは、食べてはならない(13:3)」。最後の「種を入れたパンは、食べてはならない」というところが、いわゆる戒めです。これは意味も分からない、とにかく守るべき戒めではありません。物語があるのです。主が私たちを救ってくださった出来事が。その物語を想起し、救いの御業を追体験し、今ここで私を救ってくださる神を改めて信じるための戒めです。
「初めに胎を開くものはすべて、主に献げなければならない(13:11)」。それは、主が力強い手で私たちをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださったからです。つまり、この物語は、私たちのアイデンティティをつくります。私は主に救って頂いたものだから、その尊い命を主にささげよう、という道を示したのが、主の律法です。
私たちにも、私たちのための神の物語があります。私たちは小羊のように裂かれ、、血を流されたキリストに救われました。足の海の底をくくり抜けるようにして、水をくぐり抜け、つまり洗礼を受けて、今生きています。これは、あなたを救ってくださる神の物語です。これは、あなた自身の物語です。
出エジプト記13-14;
旧約聖書の最初にある五つの書を「律法」と呼びます。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つです。これから読んでいくとすぐに分かりますが、この出エジプト記の後半以降は、まさに「律法」という内容になります。しかし、年が明けてからこれまで読んできたところを思い出してみると、律法というよりも物語といった感があります。日本の六法全書を見ても、物語の文体で書いた法はありません。どうして、律法なのに物語が書かれているのでしょうか?
今朝の御言葉を読むと、その理由がよく分かります。「あなたがたは、エジプトの地、奴隷の家から出たこの日を覚えなさい。主は力強い手によって、あなたがたをここから導き出されたからである。種を入れたパンは、食べてはならない(13:3)」。最後の「種を入れたパンは、食べてはならない」というところが、いわゆる戒めです。これは意味も分からない、とにかく守るべき戒めではありません。物語があるのです。主が私たちを救ってくださった出来事が。その物語を想起し、救いの御業を追体験し、今ここで私を救ってくださる神を改めて信じるための戒めです。
「初めに胎を開くものはすべて、主に献げなければならない(13:11)」。それは、主が力強い手で私たちをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださったからです。つまり、この物語は、私たちのアイデンティティをつくります。私は主に救って頂いたものだから、その尊い命を主にささげよう、という道を示したのが、主の律法です。
私たちにも、私たちのための神の物語があります。私たちは小羊のように裂かれ、、血を流されたキリストに救われました。足の海の底をくくり抜けるようにして、水をくぐり抜け、つまり洗礼を受けて、今生きています。これは、あなたを救ってくださる神の物語です。これは、あなた自身の物語です。