2019年2月8日金曜日

2019年2月8日(出エジプト記15〜16)

今日の通読箇所:マタイによる福音書27:32-66、出エジプト記15-16、詩編45

出エジプト記15-16;
荒れ野に出て旅を始め、すぐに水がないこと、食べ物がないことへの不満が噴出します。神はそれに対し、水と食料を与えてくださいました。その食べ物は、マナと名付けられます。「イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それはコリアンダーの種のようで、白く、蜜の入った薄焼きパンのような味がした(16:31)」。どういうものなのでしょう。おいしそうに思えます。彼らは、これから始まる40年に及ぶ荒れ野での旅の間、ずっと、毎日毎日神様が与えてくださったパンであるマナを食べて、生きていったのです。
この「マナ」という名前ですが、もともとの言葉は「これは何だろう」という意味です。初めてマナを見たとき、彼らはそう言ったのです。「朝になると、宿営の周りに露が降りた。降りた露が上がると、荒れ野の地表に薄く細かいものが、地の上の霜のようにうっすら積もっていた。イスラエルの人々はそれを見て、『これは何だろう』と互いに言った(16:13-15)」。この最後の「これは何だろう」が、マナという言葉です。
ですから、荒れ野を旅するイスラエルの食事の光景は、愉快だったと思います。朝起きて外に出ると、一面に広がっているのです。『これは何だ?」が。子どもが母に尋ねます。「お母さん、今日のご飯は何?」「これは何だろう、よ。」毎日毎日、彼らは『これは何だ?』と言いながら、食事をしました。
そこには、深い暗示的な意味があります。私たちは、毎日、毎朝、主に問うことで生きているのです。主よ、これは何でしょうか?私を生かしてくださるあなたの恵みとは、一体なんでしょうか?これがあなたの御心なのですか?あなたが望んでおられることは、何ですか?私たちの問いに、神は答えてくださいます。マナ(これは何だろう)によって。ですから、問いは更なる問いを生みます。しかし、そのことを恐れなくていい。「マナでオメル升を満たし、代々にわたって保存しなさい(16:32)」。問いは、保存されます。しかしその問いは、神に覚えられています。やがて私たちがキリストと顔と顔とを合わせてお目にかかるとき、キリストご自身が私たちに答えてくださるでしょう。その日に至るまで、主に問いつつ、私たちは生きていきます。

2024年12月23日の聖句

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