2019年4月14日日曜日

コリントの信徒への手紙一11:23-34「ふさわしさ、そしてふさわしくなさ」


 12日に行われた東京大学の入学式での上野千鶴子さんの祝辞が話題になりました。「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。」自分の努力の成果や持って生まれた才能、恵まれた環境、そういったものを自分だけのために使おうという誘惑は、いわゆるエリートだけの誘惑ではありません。私たちはほとんど皆が自分のものを自分のためだけに使い、自分の楽しみを優先したいという卑しい性根を持っているし、どんなに否定してもそれはなくならないものだと思います。
 コリント教会ではそれが食卓の問題となって表面化していました。教会の中の富んでいる者たちが、貧しい者たちを思いやることができない。彼らがまだ仕事をして教会に来られないうちに飲み食いを初めて、ぶどう酒に酔う者までいた。当時の教会では、皆で食事をする愛餐会に続けて聖餐が祝われていたようです。聖餐、主の食卓が、貧しい人に恥をかかせる機会になってしまっていました。34節に「空腹の人は、家で食事を済ませなさい」と言っています。ある人が、この節でパウロが言わんとしていることは、単に食事のタイミングに気を遣えと言うことだけではなくて、むしろもっと積極的に、貧しい人を招いてもてなしなさいということだと解説していました。なるほどと思います。自分の持っている物を貧しい人のために使おう、というのです。
 私は今日与えられているこの聖書の御言葉を読んで、コリント教会の人たちも、私たちも、同じ人間なのだと思いました。自分の物を自分のために使って何が悪い、とすぐに考えてしまうからです。分け与えるにしても、その相手は家族や自分の好きな人、そうでなければ自分を好きでいてくれる人、気の合う人。コリント教会でも、金持ちは金持ち同士で楽しく飲み食いしていたのでしょう。しかし、それでは主の食卓にならない。なぜなら、主が死なれたことを無視しているからです。実際の食事の仕方が、主の死と無関係になってしまっているからです。「主の体のことをわきまえずに飲み食い」しているからです。主の食卓は、「このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」ためのはずなのに。それは、もう一度主イエスを十字架にかけるような、罪深いことです。そのような食事では「自分自身に対する裁きを飲み食いしている」と言わざるを得ない。
 「わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。」この「わきまえる」という言葉は、区別をする、調べるという意味です。今の自分と、あるべき自分の姿を調べる、ということではないでしょうか。今の自分の在り方を調べれば、改めざるをえなくなります。神の願われる、あるべき自分の姿に向かいたい。神の御許に帰りたい。
 受難週を迎えました。主イエスが御自分の体を裂き、血を流して、それを私たちに与えてくださいました。それによって、私たちが一つになるために。私たちが主にある和解の食卓につくために。十字架にかけられたイエスが、私たちを自己中心の罪から自由にしてくださいます。

2024年12月24日の聖句

あなたの神、主があなたに与えられた祝福に応じて、おのおの手ずから贈り物をしなければならない。(申命記16:17) (東方の博士たちは)ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2:11) 東方の博士たちが幼子イエスにお献げした三つの贈り物...