今日の通読箇所:マルコによる福音書12:18~40、ヨハネによる福音書15、詩編38
マルコによる福音書12:18~40;
サドカイ派の人々が登場します。彼らは、復活はないと主張していました。主イエスをやり込めようと、練りに練った質問をぶつけます。この問答には、旧約聖書の律法で定められた掟が関係しています。申命記25:5~10に登場する掟で、レビラート婚と呼ばれます。もしも兄が結婚し、子を残さないままで死んだ場合、弟が兄の妻をめとります。子どもが生まれた場合は亡くなった兄の子となり、兄の家名を継ぐのです。サドカイ派の人々は、七人兄弟でレビラート婚が繰り返された場合、復活の時にこの女性は誰の妻になるのかと言い出しました。明らかに、実際にそういうケースがあったというようなことではなく、質問のための質問、復活はないと論証するための想像上のケースです。
これに対して、主イエスは、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか(24節)」と言われました。サドカイ派が言っていることは、全然見当違いだということです。
サドカイ派がしたことは、論争のための抽象化です。彼らの想定問答には、実際に血の通った人間がいません。夫を亡くして悲しむ妻の姿も、家族を失って途方に暮れる遺族の姿もありません。ところが、主イエスがおっしゃったことはどうだったのか。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたがたは大変な思い違いをしている(27)」。彼らの思い違いの根は、生きた人間を失ったことにあるのではないかと思います。ところが主イエスにとっては、神は生きて働いておられる方です。だから、目の前にいる人間も生きており、その悲しみや不安、恐れと共に、主はいつもおられるのです。主イエスは、生きた神ご自身であって、私たちの長い生活やそのためのやるせなさや悲しみ、嘆きに、救いを届けてくださいます。
私たちは、時に自分の思い込みを正当化するために生きた人間を失います。それは惨めなことです。愚かな罪です。だからこそ、生きた神に立ち返るために、まことに死者の中から復活したお方に、私たちを思い違いから解き放ってくださるようにと祈り願います。
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