今日の通読箇所:マルコによる福音書12:41~13:37、ヨハネによる福音書16、詩編51
マルコによる福音書12:41~13:37;
マルコによる福音書第13章は、マルコの小黙示録と呼ばれることもあります。これからイスラエルを襲う大いなる苦難、そしてイエスが再び来るという約束、天地の終わりについて語り、「気をつけて、目を覚ましていなさい」とご自分を信じる者たちを励まします。この第13章の中心は、24から27節です。「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る(26節)」。人の子、イエスが来てくださる。私たちの目はそれを仰ぎ見る。苦しむ私たちを救うために。キリストご自身が来てくださる。そう約束してくださいました。私たちの「今このとき」という時間の意味は、キリストを待つ、という一点につきます。
今朝は日本聖書協会の指定に従って、マルコ第13章だけではなく、12:41からのところを合わせて読んでいます。ある貧しいやもめが、神殿でレプトン銅貨二枚を献金した、という話です。レプトン銅貨は当時の貨幣の中で一番価値が低いものです。私たちで言えば、2円ということでしょうか。しかしそれは「乏しい中から持っているものをすべて、生活費を全部入れた」のだと主イエスに評価されています。
この神殿での出来事の直後から、大いなる苦難(つまり、神殿もやがて崩れ落ちるということ。実際に紀元70年に神殿は戦火に崩れ落ちました。)が予告されます。本当に神殿で献げられるべき祈りを捧げた貧しいやもめ。それに対して見せかけの祈りをし、有り余る中からしか献金しない大勢の金持ち。形や人の目に見える所ではない、まことの信仰を見抜いておられる神様のまなざしの中に、私もまた立たされていることを思わされます。そう考えると、今朝の詩編第51編の御言葉を思わないわけには行きません。「あなたはいけにえを好まれません焼き尽くすいけにえを献げても、あなたは喜ばれません。神の求めるいけにえは砕かれた霊。神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません(18~19節)」。私たちの苦難の日に、目に見える所を取り繕うのではなく、打ち砕かれた心を神に献げたいと思います。ダビデのように、そしてあの貧しいやもめのように。これこそ、キリストの再び来てくださることを待ち望む信仰なのです。
2024年12月23日の聖句
私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。(詩編51:5) 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9) クリスマスにお生まれになった救い主は「イエス」と名付けられました。主の天使...
-
神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
-
さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
-
仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...