今日の通読箇所:使徒言行録24、列王記下17~18、箴言4:20~27
列王記下17~18;
北王国イスラエルが、滅亡しました。最後の王の名前はホシェアでした。彼自身は以前のイスラエルの王たちほどには悪を行いませんでしたが、もはや国の崩壊は止まりませんでした。どうしてこのようなことになってしまったのか。聖書ははっきりと答えます。「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から、エジプトの王ファラオの支配から導き上った神、主に対して罪を犯したからである。彼らは他の神々を畏れ敬い、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国民の風習と、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである(17:7~8)」。
そんな彼らを、このようにも言います。「彼らは、主の掟、主が先祖と結ばれた契約、主が彼らに厳しく命じられた定めを拒み、空しいものに従って歩んで、自らも空しくなり、主が彼らのように行ってはならないと命じられていた周囲の諸国民に従って歩んだ(15節)」。空しいものに従って、自らも空しくなった。とても印象的な、悲しい言葉です。聖書は再三にわたって、彼らが周囲の人々と同じようになったと指摘しています。神に選ばれ、神に従うはずの者が、自分のその特別な使命を捨てたのです。神様の前で与えられていた特殊性を捨てて、周囲に溶け込み、one of themになってしまいました。それはつまり、神様のこともone of themにしたということでもあります。いろいろな文化、国の人々が信じている多くの神の一人にすぎない。神様をそう扱ったのです。「私があなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。他の神々を畏れ敬ってはならない。あなたがたの神、主のみを畏れ敬いなさい。主が、あなたがたをすべての敵から救い出されるのである(38節)」と言う神様は、どんなに悲しんでおられることでしょう・・・。
第18章は、預言者イザヤの時代のユダの王、ヒゼキヤの物語です。やはり、強国アッシリアに圧迫され、今にも攻め落とされそうです。しかも、アッシリアは言います。「この度、私が主ご自身と関わりなくこの場所を滅ぼしに攻め上ってきたと思うのか。この地に攻め上り、これを滅ぼせと私に言われたのは主ご自身なのだ(18:25)」。あろうことか、アッシリアが主の名を口にしながらユダへの侵略を正当化します。そう言いながら、ヒゼキヤ王と主が前にも出てきた「高き所」の祭壇を取り除いたことを非難します(22節)。つまり、アッシリアにとっては、主は、自分たちの侵略する国々の神の一人に過ぎない、しかも敗北した神、力なき被支配者の象徴に過ぎないのです。彼らにとってははone of themでした。
主は、私たちに、ご自身への一途な愛を求めておられるのではないでしょうか。一心に主を求め、愛し、慕いまつる私たちの真心を。どのようなときにも。むしろ危機のときにこそ。神様こそ、私たちに一途な方でいてくださるからです。
列王記下17~18;
北王国イスラエルが、滅亡しました。最後の王の名前はホシェアでした。彼自身は以前のイスラエルの王たちほどには悪を行いませんでしたが、もはや国の崩壊は止まりませんでした。どうしてこのようなことになってしまったのか。聖書ははっきりと答えます。「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から、エジプトの王ファラオの支配から導き上った神、主に対して罪を犯したからである。彼らは他の神々を畏れ敬い、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国民の風習と、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである(17:7~8)」。
そんな彼らを、このようにも言います。「彼らは、主の掟、主が先祖と結ばれた契約、主が彼らに厳しく命じられた定めを拒み、空しいものに従って歩んで、自らも空しくなり、主が彼らのように行ってはならないと命じられていた周囲の諸国民に従って歩んだ(15節)」。空しいものに従って、自らも空しくなった。とても印象的な、悲しい言葉です。聖書は再三にわたって、彼らが周囲の人々と同じようになったと指摘しています。神に選ばれ、神に従うはずの者が、自分のその特別な使命を捨てたのです。神様の前で与えられていた特殊性を捨てて、周囲に溶け込み、one of themになってしまいました。それはつまり、神様のこともone of themにしたということでもあります。いろいろな文化、国の人々が信じている多くの神の一人にすぎない。神様をそう扱ったのです。「私があなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。他の神々を畏れ敬ってはならない。あなたがたの神、主のみを畏れ敬いなさい。主が、あなたがたをすべての敵から救い出されるのである(38節)」と言う神様は、どんなに悲しんでおられることでしょう・・・。
第18章は、預言者イザヤの時代のユダの王、ヒゼキヤの物語です。やはり、強国アッシリアに圧迫され、今にも攻め落とされそうです。しかも、アッシリアは言います。「この度、私が主ご自身と関わりなくこの場所を滅ぼしに攻め上ってきたと思うのか。この地に攻め上り、これを滅ぼせと私に言われたのは主ご自身なのだ(18:25)」。あろうことか、アッシリアが主の名を口にしながらユダへの侵略を正当化します。そう言いながら、ヒゼキヤ王と主が前にも出てきた「高き所」の祭壇を取り除いたことを非難します(22節)。つまり、アッシリアにとっては、主は、自分たちの侵略する国々の神の一人に過ぎない、しかも敗北した神、力なき被支配者の象徴に過ぎないのです。彼らにとってははone of themでした。
主は、私たちに、ご自身への一途な愛を求めておられるのではないでしょうか。一心に主を求め、愛し、慕いまつる私たちの真心を。どのようなときにも。むしろ危機のときにこそ。神様こそ、私たちに一途な方でいてくださるからです。