「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」この「追い求める」という言葉は、文脈次第では「迫害する」と翻訳されることもある言葉です。執拗に、執念深く追い求めるといった意味なのだろうと思います。愛を追い求めなさいといったとき、それはそれほど熱心で、すさまじいしつこさを持った追求ということなのでしょう。そうやって愛を追い求める。それは第13章から続く言葉としては、当然のことであるのかもしれません。
しかし第13章の愛を巡る言葉を、単に美しい詩のように鑑賞するのではなく、実際にその愛に生きようとするときの激しさに驚かされます。
この愛はまずどこから始まるのか。「預言するための賜物を熱心に求めなさい」とありますが、今日の最後のところの12節には「あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい」と言っています。同じ「熱心に求める」という言葉があります。霊的な賜物を熱心に求めているのなら、教会を造り上げるためにそれを豊かに受けるようにしなさい、と言っています。つまり、第13章で語られた愛は、何よりもまず教会を造り上げる愛を意味している、ということになります。
愛は具体的です。愛すること自体も具体的ですが、愛は具体的な相手に向かいます。教会は、具体的な人の集まりによって成り立ちます。キリストに呼び集められたキリストの体として愛する。私たちはそうやってキリストと出会うことができる。それが教会です。教会を造り上げる物は何か。立派な建物や社会的な影響力ではない。愛です。互いに愛し合うことです。聖書はそう言います。
しかもその愛は「預言の賜物」と言っているとおり、何よりもまず言葉として結実する愛です。私たちはどういう言葉を語っているのでしょうか。
ここでは異言と預言という話が出てきます。異言はもともとは舌という意味の言葉です。私たちの意志を超えて舌が語り出す言葉。私は聞いたことがありません。実際に聞いた人からはとても美しかったと耳にしたこともあります。しかしその特徴は、異言は神に向かって語られた言葉であって人に向けられたものではない。従って、解釈してくれる人がいなければ人には理解できない言葉だ、ということです。神様に一心に向かう祈りの言葉は、素晴らしいものです。私たちの信仰や徳を高めます。あるいはそれで通じるような仲間内でならば、特別な祈りの言葉は互いの絆を高める効果もあるかもしれません。しかし、それでは教会を造り上げないとパウロは言います。
もう一つが預言です。これは異言と違って人に向かう言葉、人を造り上げ、励まし、慰める言葉。つまり、通じる言葉、届けようとして語られている言葉です。この「励まし」や「慰め」はよく似た言葉で、どちらもすぐ側にいてかける言葉といった意味合いがあります。心から心への言葉。しかも、それを「預言」と表現します。旧約以来、預言は「神を神とせよ」と語ってきました。ここで語らえる預言、それは十字架のキリストへの礼拝へと招く言葉です。キリストの言葉を心から心への言葉として語る愛。これが私たちを一つの教会に造り上げるのです。