2019年9月8日日曜日

コリントの信徒への手紙一第15章35から41節「この体は救われうるのか?」


 先週の木曜日に、私の卒業した東京神学大学の学長をしておられる大住雄一先生が亡くなりました。旧約聖書神学がご専門で、私も教えていただいた者の一人です。私が最も尊敬する旧約学者でした。神を畏れ、身をかがめて生きることに、はっきりとした思いを持っておられた方だと私は受けとめています。教会は人間主義的な「良い事」を語ってみせるのではなく、しっかりと聖書が伝える主イエス・キリストの福音を語ろうと力強くおっしゃっていました。まだ64歳での急逝でしたので、とても驚き、また悲しい思いでいます。そんな私にとって、今朝の御言葉の始まりは、いささかショックでした。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。」愚かな人だとは穏やかならざる言葉です。私たちにとっては、大切な人が亡くなったときに、今あの人はどうしているのか、神さまはあの人をどうやって復活させてくださるのか、そういうことが気になるのは人間としてある意味当然なのではないでしょうか。それにたいして愚かだとまで言われると、少し躓いてしまいます。
 何年か前に「千の風になって」という歌が大ヒットしました。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません、眠ってなんかいません。千の風になって、あの大きな空を吹きわたっています。」もともと外国の方が作った詩ですが、日本人の死生観に見事にマッチしたのでしょう。多くの人の心を捉えたようです。しかし、この詩は死と向き合い損なっています。
 あるいは、宗教改革はルターが贖宥状を巡って疑問を呈したことに始まりましたが、贖宥状も愛する者の死の問題です。愛する者が死んだとき、罪のために煉獄で苦しみ、その日で魂が浄化されなければならない。贖宥状を買うとその苦しみを縮めるために功徳を融通する効果があるとされました。
 「千の風になって」も、贖宥状も、愛する者の死という危機の中での呻きのように聞こえます。ルターは贖宥状を買って功徳をお金で融通するのは間違っている、と言いました。いや、問題の根はお金ではない。私たちは功徳で救われるのではない。ただキリストを信じる信仰によってのみ救われるのです。キリストが私たちを死から救ってくださる。「愚かな人だ」とパウロは言います。なぜそこまで激しい言葉使いをするのか。コリント教会の人びとが、キリストとの関係を見失っていたからです。自分自身や愛する人の死に際して、キリストを消し去っていたからです。キリストの復活こそが、あなたを、あなたの愛する人を、死から救うのです。神学校での伝道者養成に生涯を献げた大住先生でしたが、伝道者になるというのは、キリストの復活の証人になることだとおっしゃっていました。人間主義的な良い言葉、すばらしい人生訓。いろいろな言葉がこの世界にはあります。しかし、私たちを死から救うのはキリストの復活の知らせなのです。
 私たちの肉体をどんなに熱心に見つめても、復活しそうな要素は見つかりません。種粒は、小さくて地味な砂利のようです。しかしその死んだ種粒から美しい花を咲かせてくださるのは、神の御業に属しています。死んだものから神に与えられた命が芽吹くのです。それは、ただただキリストの故。キリストの復活の命に、神は私たちをも与らせてくださる。その救いが、ここにあります。

2025年1月17日の聖句

誰の道も主の御前に開かれている。(箴言5:21) 主が来られるときまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。(1コリント4:5) 私たちにとって、人を裁くのは快感です。そもそも人が集まって一番盛り上がるのは...