今日の通読箇所:フィリピの信徒への手紙3、イザヤ書21~22
イザヤ書21~22;
セイルから私を呼ぶ者がいる。「見張りの人よ、今は夜の何時か。見張りの人よ、今は夜の何時か。」見張りは言った。「朝は来る、だが、まだ夜だ。尋ねたければ尋ねよ。もう一度来るがよい。」(21:11~12)
讃美歌の236番に「見張りの人よ」という曲があります。このイザヤ書の御言葉から作詞されています。「見張りの人よ、夜明けはまだか。いつまで続くこの闇の夜は」。これはアドベントに歌う讃美歌です。この闇の中にある世界で主イエスを待ち望む信仰に生きる、希望の讃美歌です。この讃美歌では、先ほどの歌詞に続けて見張りの人からの返答としてこのように歌います。「旅ゆく人よ、東の空にあけの明星、ひかり輝く」。あけの明星、それは主イエスです。キリストという夜明けを告げる星が輝いている。夜明けは誓い。必ず朝は来る。しかし、私たちは知っています。日が昇る直前、夜明け前の時間こそ、一日の中で一番冷え込む時間帯でもあるということを。夜明けを待ち望むそのときこそ、一番夜が更けているときでもあるのです。しかし、朝を焦がれるものに、必ず朝は来る。預言者はそのように語ります。
主は、夜明けを待ち望むものに呼びかけておらます。「その日、万軍の主なる神は『泣き、嘆き、神をそり落とし、粗布をまとえ』と呼びかけられた。ところが、お前たちは喜び祝い、牛を殺し、羊を屠り、肉を食らい、酒を飲み、『食べたり飲んだりしよう、どうせ明日は死ぬのだから』と言う(22:12~13)」。彼らにとっての「明日」は、希望の夜明けではありませんでした。絶望、諦め、いや、そもそも「明日」が来るなどとは誰も真剣に考えていなかったのかもしれません。明日が来る。それは、信仰に属する確信です。神を信じるところで与えられる望みです。だから、私たちは希望を持って告白します。明日は来る。救い主が私たちのところに来てくださる明日は来る。この世界に、この痛んでいる私たちのところに、救い主は再び来てくださる。この望みによって、私たちは新しい一日に送り出されていきます。
2025年1月17日の聖句
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