2025年1月17日金曜日

2025年1月17日の聖句

誰の道も主の御前に開かれている。(箴言5:21)
主が来られるときまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。(1コリント4:5)

私たちにとって、人を裁くのは快感です。そもそも人が集まって一番盛り上がるのは人の悪口か噂話です。どちらにしても、私たちの裁きの心を刺激します。その場にいない夫を裁き、妻を裁く。同僚を裁き、部下を裁き、上司を裁く。どのような人間関係であっても、私たちの心の中にはすぐに「裁きの心」がムクムクと頭をもたげてきます。
そういう心をファリサイ根性と言います。ファリサイ派の人々はとても信仰深く、ちゃんと暮らしている人たちで、民衆から尊敬されていました。しかし福音書に記された彼らの言動を見ていくと、そこに隠された裁き心が見え隠れします。ファリサイ主義は私たちのとても近い親戚。私たちの同類です。ファリサイ根性は私たちに深く染みつく罪です。
ところが聖書はそういう私たちの思いに真っ向から挑みかかってきます。「主が来られるときまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。」裁きは主がなさることであって、私たちはそれをしてはならない、と言います。私たちの道は主の前にある。誰の道も。主がそれをご覧になり、裁きを行われる。私たちは主の御前に身を低くし、その裁きを恐れるしかない。
神さまの御前に、ひたすら身を低くする以外に何もないと改めて思わされます。神さまを畏れ、隣人を敬い、誠実に生きる謙遜をお与えください、と祈ります。

2025年7月1日の聖句

7月の聖句: 何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ4:6) 今日の聖句: たとえこの身も魂も衰えようとも、そうであっても、神よ、あなたは常に私の心を慰め、私の一部。(詩編73:26) (先見者ヨ...