今日の通読箇所:ガラテヤの信徒への手紙3、イザヤ書6~8
イザヤ書6~8;
「誰を遣わそうか。誰が私たちのために言ってくれるだろうか」という天に響く声に、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と答えた預言者イザヤに、神様は「言って、この民に語りなさい。『よく聞け、しかし、悟ってはならない。よく見よ、しかし、理解してはならない』」と言われます(6:8~9)。これから預言者として活動しようという者に言うのには、あまりに意外な言葉ではないでしょうか。ところが、実際にイザヤの言葉は、人々に理解されませんでした。難しすぎて分からなかった、というのではありません。よく分かったからこそ反発したのです。イザヤだけでなく、預言者の言葉は、ほとんどの場合そういう反応を呼び起こします。預言者とは、人々が悟らず、理解しない言葉、さらに言えば悟りたくない、理解したくない言葉を神様から託された人間のことです。
第7章からは、列王記下第16章の時代です。この時代のユダの王はアハズ。彼はダビデとは異なり、主の目に適う正しいことは行いませんでした。この時代、アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカが軍事同盟を結び、ユダを圧倒していました。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した(7:2)」。しかし、イザヤは、アラムとイスラエルの企みは失敗に終わると言います。ところがユダのアハズ王はこれを信頼しません。そこで、イザヤは神が一つのしるしを与えてくださると言いました。「主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。悪を退け善を選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜜を食べる(14~15節)」。今、社会の中で起きている出来事は、周辺諸国の安全保障環境が劇的に変化し、ユダは絶体絶命のピンチです。世界史的な出来事を前に、王も国民も意気消沈していました。そんなときに、何の力もない一人の男の子の誕生が救いのしるしだ、と預言者は言うのです。起きている事柄の重大さに比べて、あまりに小さなしるしです。しかし、その小さなところに、すでに神の業が現れている、と預言者は訴えます。
「しかし、抑圧された地から闇は消える。先に、ゼブルンの地とナフタリの地は辱められたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦人のガリラヤに栄光が与えられる(8:23)」。神が始めてくださる救いの約束だけを信じて生きよう。預言者は、私たちにそう呼びかけています。