2019年9月15日日曜日

フィレモンへの手紙7〜20「オネシモ物語」


 この「フィレモンへの手紙」は、その名の通り、パウロがフィレモンという人に宛てて書いた私信です。パウロがこの手紙を書いたとき、まさかこれが聖書の一部になって、2000年経っても世界中で読まれているなどとは想像もしていなかっただろうと思います。内容もプライベートなものです。しかしそのプライベートな事柄がまことに普遍的な意味をもっていたのでした。
 フィレモンにはオネシモという一人の奴隷がいました。奴隷と言っても、今日私たちが想像するような非人間的な奴隷とは少し違っていたようです。しかしそれでもオネシモは主人であるフィレモンの世話をするのが仕事でしたし、彼には職業選択や移動の自由はありませんでした。ところが、フィレモンは何かの事情で主人に損害を与えてしまったようです。主人の金を盗んだのではないかと考える人もいます。あるいは、オネシモは主人に無断で出奔してしまった。当時の法律では、奴隷が勝手に主人の下を離れた場合、その日数に従って主人に賠償しなければならないと決められていたようですから、そういう意味での損害を与えてしまった、ということかもしれません。いずれにしても、フィレモンはもう主人の許に帰って合わせることのできる顔を持ち合わせてはいませんでした。それで、どういう事情であったのか、ローマで獄中にいたパウロのところへ、彼はたどり着いたのです。もしかしたら、オネシモ自身も囚人になってパウロと同じ獄にいたのかもしれません。あるいは、主人フィレモンと昵懇の仲であるパウロのところへ助けを求めに行ったのかもしれません。オネシモは、パウロと出会い、語り合い、彼を通してイエス・キリストを知り、キリストを信じ、洗礼を受けたのです。パウロはオネシモをフィレモンの元へ帰らせました。その時に持たせた手紙が、この手紙です。
 「むしろ愛に訴えてお願いします。年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。」「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたがた彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。」
 パウロはフィレモンに「わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら」と言っています。同じ神を信じる仲間として、彼に頼んでいます。どうかオネシモを受け入れてほしい、と。それは、キリストに愛され、赦された者として、彼を赦し受け入れてほしい、ということでしょう。しかももはや奴隷としてではなく、一人の兄弟として。キリストがこの人のためにも命を捨てたのは、私たちが兄弟となるためだった。この真理が、私たちの人間関係に根本からの変革を呼び起こすのです。

2025年1月16日の聖句

人間の高ぶる目は低くされ、人の高慢は卑しめられる。 その日には、主のみが高くされる。(イザヤ2:11) 神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。...