2019年11月24日日曜日

2019年11月24日(ダニエル書1)

今日の通読箇所:ヨハネの手紙一1、ダニエル書1

ダニエル書1:
バビロンの王ネブカドネツァルによる第一回バビロン捕囚のときの捕囚民の中に、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤという若者たちがいました。王は彼らを含む見所のある若者らににカルデヤ人(バビロニアの人々)の文字と言語を学ばせて、王宮に仕えさせるべく、英才教育を始めます。
王が若者たちにしたことは、イスラエルの若者たちのカルデヤ人化です。まず、名前を奪い、カルデヤ風のものに変えさせます。「ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ」(7節)。どうやらこの新しい名前は、カルデヤ人の神々が関係のある名前のようです。名前はアイデンティティそのものです。名前を奪い、占領国の名前を与える。非人間的なふるまいです。しかし、彼らは敗戦国民ですから、甘んじて受けるよりほかありません。自己主張など、不可能な場面です。
「しかし、ダニエルは王の食事と王が飲むぶどう酒によって自らを汚すまいと心に決め、自分を汚さないでほしいと、宦官の長に頼んだ」(8節)。イスラエル人がどんなに食べて良いものと食べてはならないものとを丁寧に区別していたのかは、レビ記などの律法の書を読んできた私たちはよく知っています。宦官らはダニエルたちを立派なカルデヤ人にして、王に仕えさせようとしていましたが、ダニエルたち四人にとっては、譲ることのできない一線でした。自分たちの命をかけてでも。
私たちには、この社会の中に生きるキリスト者として、譲ることのできる事柄とそうではない事柄とがあります。それらをよく識別し、譲りうるところでは柔軟に譲歩し、譲ってはならないところでは断固として戦う、というあり方が求められるのではないでしょうか。ダニエルたちにとって名前の問題は、自分たちのアイデンティティを奪われるような暴挙でしたが、そこは受け入れました。自分たち自身の問題にとどまるからなのかもしれません。しかし、食べ物のことでは譲らなかった。好き嫌いの問題ではなく、神に与えられた律法に背くからです。言葉を換えれば、まことの神だけを神としてあがめることに矛盾するからです。神だけの前にひれ伏すことに矛盾するからです。私たちにとって、譲りうる事柄は何でしょうか?決して譲ってはならない事柄は一体なんでしょうか?

2024年5月10日の聖句

(主の言葉)私はあなたがたを顧み、多くの子どもを与え、数を増し加えて、あなたがたと契約を立てる。(レビ26:9) キリストによって、体全体は成長させられ、愛の内に造り上げられてゆくのです。(エフェソ4:16) キリストは、私たち教会を今地上にあるご自分の体としてくださいました。私...