2019年11月24日日曜日

ヨハネによる福音書第1章14から18節「見よ、独り子の栄光を」


 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書かれています。私は、今、特別な思いを持ってこの言葉を読んでいます。これは、初めにあった言です。神と共にあり、神ご自身であった言です。万物を造った言、光であり命である言。その言が、肉となった。人となったのです。教会生活が長くなると、神の子が人となられたと知識としては知るようになります。今年ももうすぐやって来るクリスマスに、毎年のようにそう聞きます。しかし、そういう知識は、私たちにどのような実感をもたらしているのでしょうか。
 先週、OYさんが逝去されました。OYさんは隣の教会のメンバーですが、今から42年間に近所に新しい教会ができると聞いて、この教会の開拓が始まって最初のクリスマスから、毎年、私たちの教会に献金を続けてくださいました。16節には「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。OYさんは、キリストの溢れんばかりの恵みを豊かに受けて、それをわたしたちにも分かち合ってくださったのだと改めて思わされています。
 私は、葬儀のときに何度も繰り返して「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という言葉を思い出しました。言は肉となったと言うときに、どの程度「肉」になったということなのでしょうか。肉体は、弱いものです。わたしたちの肉体が覚える弱さ、痛み、病。もっとはっきり言えば、わたしたちは必ず死にます。肉となった言は、そこまでわたしたちと同じものになってくださいました。わたしたちの間に肉として宿った言、イエス・キリストは、わたしたちと同じ死ぬ者になってくださり、十字架にかけられて死にました。「言は肉となって」というのは、ですから、驚くべき言葉です。わたしたちが死ぬ時にも、キリストはそこにおられるのです。
 この福音書は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言って、すぐに続けます。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と。言が肉となり、わたしたちと同じ死すべきものとなった。そして、それを、父の独り子としての栄光と呼んでいます。独り子である神の栄光、それは、わたしたち人間と同じ死ぬ肉体になり、そして事実、十字架の上で死なれたことなのです。
 それはわたしたちが想像する栄光とはずいぶんと違っています。先日、天皇の即位の儀式がありました。即位礼正殿の儀の日、天皇が最初にしたことは、天照大神のところへ言って礼拝をすることでした。大嘗祭が行われました。これもやはり天照大神を初めとして、神々と新穀を食すものです。天皇の栄光は天照大神に保証されたものです。ところで、今日は教会暦では「王であるキリスト」と呼ばれる日です。これは1925年に、当時のローマ・カトリック教会の教皇ピオ10世が定めたものです。当時はヒットラー、ムッソリーニ、スターリンなどが台頭していた頃です。その時代に、あなたの王は誰かと問うたのです。わたしたちが見るべき栄光はここにあると聖書は語ります。
 神の独り子の栄光は、弱い肉となるところに見えてくる栄光です。十字架にかけられ殺されるところで見える栄光です。そしてこの栄光は恵みと真理に満ち、わたしたちを神の恵みに与らせるのです。

2024年4月19日の聖句

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