今日の通読箇所:ヨハネの黙示録12、アモス書6~7
アモス書6~7;
ここには預言者アモスが見た幻の内の三つが記録されています。どれも、神の民に対する裁きの幻です。最初と二番目は、アモスの執りなしによって、裁きが思い直されていました。ところが、第三になると、「見よ、私は、わが民イスラエルのただ中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない」(7:8)と告げられています。裁きの時が来た、と宣告されている。
裁きを宣告する言葉、罪を指摘する言葉、そのような言葉は、聞く者にとっては耳障りです。できれば聞きたくない言葉です。ですから、祭司アマツヤは、アモスについて、王ヤロブアム二世に言いました。「イスラエルの家のただ中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません」(10節)、と。そして、アマツヤはアモス地震に対して、この国から出て行けと言います。
アマツヤは正直な人です。厳しい言葉なんて誰も聞きたくはない。彼はそれをはっきりと退けました。これに対してアモスは言います。「主が羊飼いの群れを追っている私を取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と私に言われた。今、主の言葉を聞け。あなたは、『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとを語るな』と言う」(15~16節)。アマツヤはアモスに語るなと命じます。しかし、アモスは語らないわけにはいかない。なぜなら、神が語れと命じられたからです。「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられよう」(3:8)。神が語られるのだから、それがどんなに話しにくいこと、受け入れられないであろうことであったとしても、語らないわけにはいかない。それが自然なことだ、とアモスは言います。
アマツヤは自分の気持ちに正直な人でした。しかし、アモスは神様に対して正直な人でした。人間として自然な生き方をしたのは、アモスではないでしょうか。神に向かって生きることこそ、私たちの本当に自然なあり方ではないでしょうか。
アモス書6~7;
ここには預言者アモスが見た幻の内の三つが記録されています。どれも、神の民に対する裁きの幻です。最初と二番目は、アモスの執りなしによって、裁きが思い直されていました。ところが、第三になると、「見よ、私は、わが民イスラエルのただ中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない」(7:8)と告げられています。裁きの時が来た、と宣告されている。
裁きを宣告する言葉、罪を指摘する言葉、そのような言葉は、聞く者にとっては耳障りです。できれば聞きたくない言葉です。ですから、祭司アマツヤは、アモスについて、王ヤロブアム二世に言いました。「イスラエルの家のただ中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません」(10節)、と。そして、アマツヤはアモス地震に対して、この国から出て行けと言います。
アマツヤは正直な人です。厳しい言葉なんて誰も聞きたくはない。彼はそれをはっきりと退けました。これに対してアモスは言います。「主が羊飼いの群れを追っている私を取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と私に言われた。今、主の言葉を聞け。あなたは、『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとを語るな』と言う」(15~16節)。アマツヤはアモスに語るなと命じます。しかし、アモスは語らないわけにはいかない。なぜなら、神が語れと命じられたからです。「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられよう」(3:8)。神が語られるのだから、それがどんなに話しにくいこと、受け入れられないであろうことであったとしても、語らないわけにはいかない。それが自然なことだ、とアモスは言います。
アマツヤは自分の気持ちに正直な人でした。しかし、アモスは神様に対して正直な人でした。人間として自然な生き方をしたのは、アモスではないでしょうか。神に向かって生きることこそ、私たちの本当に自然なあり方ではないでしょうか。