2020年5月15日金曜日

2020年5月15日(ルカによる福音書14:25〜35)

ルカによる福音書14:25~35
「大勢の群衆が付いて来たので、イエスは振り向いて言われた。『誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。』」
あまりに厳しい言葉に、怯んでしまいます。できれば聞かなかったことにして済ませてしまいたい。正直に言って、そう思ってしまう言葉です。一体、この言葉をどう理解し、受け止めればいいのでしょうか。
しかし他方では、このようにも思います。今、私は、家族を大切にし家族と幸せに過ごすことが何よりの幸せだと思っているのではないだろうか。それ以上の幸せがあると言われる主イエスの言葉を、自分の基本的な価値観では受け入れられないと言って最初から拒否してしまっているのではないか。それでいいのだろうか。
そのように考えると、二つの間で板挟みになってしまったような苦しさを覚えます。
この話の後半を読むと、塔を建てるときには立て上げるのに十分な費用があるのを確認するのが当然だ、戦争に出るなら相手の兵力を迎え撃てる力がこちらにあるかを考えるのが当然だ、という話です。それと同じように、「自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない」と続きます。よく考えればそれが当然の振る舞いではないか、と主は言われます。しかしそれを「当然だ」と思えていないからこの言葉を無視したいわけなので、そこに自分と主イエスとのギャップがあるということになります。
私がこの話を聞く上で忘れてはならないと思うのは、これに続く第15章の後半にはあの喪われた息子の譬え話があると言うことです。主ご自身、子どもを失った父の姿に託して、神様の憐れみを私たちに話してくださいました。そこから考えても、家族の愛などどうでもいい、それはまやかしだといったことを主イエスが言われたのではない、と私は思います。
失われた者をどこまでも捜し求めてくださる父としての神の愛。私たちの愛する者のことを、この神の愛にまかせていい、ということなのではないでしょうか。「あなたは私に従いなさい」と主は言われているのだと思います。主に従うというのは、表面的に他の人がそう評価してくれるような行動をするということとは違うかも知れません。ときには家族に仕えることで主に従うということだってあり得るでしょう。家族を主に任せ、私は主に従い、そのような者として新しく家族と出会う。主イエスは私たちにそのような道を示しておられるのではないでしょうか。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...