2020年5月14日木曜日

2020年5月14日(ルカによる福音書14:1~24)

ルカによる福音書14:1~24
今日の箇所は、昨日のところから続いている一連の話なのだろうと思います。主イエスは、第13章の最後のところで、エルサレムのために激しい嘆きを訴えました。そして、14:1以下ではファリサイ派の議員の家での安息日の出来事です。そこに水腫を患っている人がいて、主イエスはそこにいた律法の専門家やファリサイ派の人に対して「安息日に病気を治すことは許されているか、いないか」と問います。彼らは答えられませんでした。安息日を巡る議論は律法学者やファリサイ派にとっては相当に重要なことで、これはイエスへの殺意の大きな要因になったと考えられます。逆に言えば、このことを通して彼らのイエスに対する頑なさがあらわになった、と言ってもよいと思います。
その後、宴席の譬えが二つ続いています。宴席に招くのは、招かれたお返しのできない「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」であるべきだとイエスは言われます。更に、神が招いてくださっていた宴席に招かれていた人々は来なかったので、結局その席に呼ばれたのは「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」であり、それでも足りない分は街道や農地にいる人を無理に呼び込む、と言っています。
これら二つの宴席の譬えには、どちらにも貧しい人、殻の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人が登場しています。その人たちはパーティに招かれてもお返しができない人であり、あるいはもともとは招かれてもいなかった人たちでした。しかし、結局神の国の宴席に着くのは彼らだ、と主は言われます。ここには、13:30の「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」が響いているのだろうと思います。
ここで主イエスがいちばん問題にしているのは、私たちの頑なさではないかと思います。宴会で上座に座りたいという、人から重んじられたい、偉くなりたいという気持ち。人に何かをしてあげたらお返しをしてほしいという、見返りを求める下心。神様に招かれても自分の都合を手放せない身勝手さ。それらは、わたしたちが自分に固執して放せないものばかりです。自分のプライドだったり、考えだったり、見栄だったり、お金だったり。この章の最初に指摘されていた安息日の律法は、そういう私たちのこだわりが、ここに登場する水腫の人という現に苦しんでいる人の命や尊厳よりも大事になってしまっている、ということだったのではないかと思います。「あなたがたの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからと言って、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と主は言われます。そんな当たり前のことを見失ってしまう私の罪が、主イエスの招きを拒む頑なさになっているのだと思います。今日、私はこの聖書の御言葉を読んで、そのように感じました。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...