2020年7月16日木曜日

2020年7月16日(ヨハネによる福音書4:31〜54)

ヨハネによる福音書4:31~54
「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスご自身は、「預言者は、自分の故郷では敬われないものだ」と証言されたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、その時エルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」
「預言派は自分の故郷では、敬われないものだ」という主イエスのお言葉は、重い言葉です。ガリラヤへ着いたら、ガリラヤの人たちがイエスを歓迎しました。その歓迎の裏にある不信仰を見抜いておられた、ということなのでしょう。厳しいことです。ガリラヤの人たちが祭りでエルサレムに行ったときに、そこでイエスがなさった数々のしるしを見ていた。それで、イエスを歓迎した。それは少なくとも主ご自身が望んでおられたものではなかった、ということなのでしょう。
このことの手がかりになるのは、この直前の箇所がサマリアでの出来事を報告している、ということです。サマリアの町シカルの人々は、この町の一人の女が主イエスと出会ったことをきっかけに、彼女に促されてイエスと出会うことになります。彼ら自身が主イエスと出会い、最後に彼女に言いました。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからである。」彼らは、主イエスの話を自分で聞いて、この方が世の救い主だと分かった、と言っています。このことが、大切なのだと思います。
ガリラヤの人たちはイエスがエルサレムでなさったしるしを見て信じました。しかしそこにご自分を敬っているのではない、言葉を換えれば不信仰があることを主イエスは見抜いていた。しるしを見て信じる信仰、それは、自分の納得できる答えを探す信仰です。自分のニードを優先させる信仰です。だから、主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのでしょう。
それに対し、ガリラヤの町カナで出会った王の役人は、「あなたの息子は生きている」と言った主イエスの言葉を信じたのです。サマリア人たちが見せた信仰と同じなのだと思います。主イエスの言葉を信じる。それは、今私たちが聖書を読んでするのと同じことです。主イエス・キリストの言葉を信じる信仰に、私たちは招かれています。

2024年3月28日の聖句

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