2020年9月24日木曜日

2020年9月24日(テモテへの手紙一4)

テモテへの手紙一4
「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」

この章では、パウロは最初に「霊が明らかに言われるように、後の時代になると、惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われて、信仰から離れる者がいます」と始めています。後の時代というのは、直前が主イエスの歩みについて語る敬虔の秘儀の話でしたので、主イエスよりも後の時代、つまり、現代も含む代々の時代のことであるのだと思います。そして、この時代には惑わす霊と悪霊の教えが私たちの心を奪うと言います。その教えは偽善であり、私たちの良心に押された焼き印を刺激するものだと言ってます。
具体的には、ここでは結婚を禁じたり食べ物を絶ったりすることをよしとしている。性的禁欲、食欲における禁欲。一見すると高邁な信仰的禁欲のようにも見えますが、それは偽善だと言います。食べ物も性の営みも、それ自体は神が造ってくださったものであって、「信仰があり、真理を認識している人が感謝して受けるなら、捨てるべきものは何もありません」。
パウロは物事の本質を見る目があったのだなと思います。一見すると、禁欲は崇高な行いです。しかしそれを偽善と呼ぶのは、結局禁欲が自分の良心を基準にしているからです。まさかあの人が、という人が過ちを犯してしまうことは間々あります。それは不真面目だからではなくて、真面目だからなのだと思います。我慢が何かのきっかけではじけ飛んでしまう。それは、ある意味では必然だと思います。私たちは弱いですし、それに食べることも性の営みも、そもそも全面的に否定すべきものではないからです。神が造ってくださったものとして感謝して受けるならば。
私たちが自分の良心を基準にして物事を判断する限り、そういうところでの歪みは如何ともし難い。そこでパウロは言います。「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい」と。聖書が私たちの判断の基準になる。ただ問題は、聖書をどう読むのかということです。聖書の言葉を自分の良心に引き寄せて読むということだって起こります。そこで、ここでの大切なキーワードは「励まし」です。慰めとも翻訳できる単語です。聖書の言葉は私たちへのキリストからの励ましであり、慰めです。私たちは自分の良心を満足させるためではなく、キリストへの奉仕者として、キリストに自由にして頂いた者として、感謝と喜びの内に生きることができる。聖書をキリストからの励まし、慰めの言葉として聞くときに、私たちの生きる航路を示す羅針盤として、聖書の御言葉を聞く敬虔の道が拓けるのではないでしょうか。

2025年1月6日の聖句

主は私に緑の牧場で草を食ませ、 清新な水のもとへと誘われる。 主は私の魂を蘇らせる。(詩編23:2~3) あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。(1ペトロ2:25) 時々、牧場に行くことがあります。羊がいます。羊は...