2020年9月4日金曜日

2020年9月4日(ガラテヤの信徒への手紙4)

ガラテヤの信徒への手紙4
「あなたがたが子であるゆえに、神は『アッバ、父よ』と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。」
私たちはキリストの真実によって救われた。わたしたちは救われた。言葉を換えれば、私たちは神の子にして頂いたということです。キリストによって私たちが救われる喜びは、神を「私の父、私たちの父」とお呼びすることができる喜びです。私たちはキリストの真実によって、神を父と呼ぶ喜びにあずかっています。私たちは祈るときに「父なる神様」と祈ります。たった一言私たちがそう祈るとき、そこでは、キリストの霊が私の内にいて神様を「父よ」とお呼びしているということに他ならない。しかも「アッバ、父よ」とパウロは書いています。「アッバ」は幼児が父を呼ぶときの言葉です。そういう本当に親しい思いを込めて神様をお呼びしている。それが、信じる喜びなのです。
私たちが実際に祈りの中で神様を「父」とお呼びしているという事実は、私たちが神の子であることを証明しています。子であるならば、奴隷ではありません。かつてはそうではありませんでした。かつて、私たちは神ならぬものの奴隷だった。不自由でした。この世で価値ありとされているものには私たちを奴隷にする力があります。この手紙では具体的に割礼の話が出てきていました。割礼は律法に命じられた儀式ですが、同時に、ユダヤ人の民族性の象徴でもあります。ユダヤ人の割礼へのこだわりは、出自へのこだわりでもあります。ユダヤ人であるということが彼らの誇りだった。そして、異邦人社会に福音が宣べ伝えられたとき、その民族性と異邦人伝道とが衝突しました。それがガラテヤ教会で起きたことです。異邦人キリスト者に、ユダヤ人になることを求めたのです。それでは割礼の奴隷、律法の奴隷、民族性や誇りの奴隷です。キリストがご自身の真実によって自由にしてくださった異邦人キリスト者を、また別の神ならぬものの奴隷にしてはならない。それがパウロの主張でした。
私たちは自由です。神を信じて自由にして頂きました。その事実は、私たちが神を父と呼ぶ祈りの言葉にすでに現れている。真理は私たちを自由にします。「父よ」という祈りの言葉は自由のしるしです。自由な神の子として、私たちは今日という新しい一日に出発していきます。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...