2020年9月5日土曜日

2020年9月5日(ガラテヤの信徒への手紙5)

ガラテヤの信徒への手紙5
「きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。なぜなら律法全体が、『隣人を自分のように愛しなさい』といいう一句において全うされるからです。互いにかみ合ったり、食い合ったりして、互いに滅ぼされないように気をつけなさい。」
今からちょうど500年前の1520年、マルティン・ルターという牧師が『キリスト者の自由について』という一冊の本を書きました。いろいろなところで日本語訳が出ているので、ぜひ読んで頂ければと思います。まさに名著です。この本は二つの命題から始まります。ルターはこのように言います。
 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
 キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。
矛盾するこの二つの命題が、キリスト者の自由についての急所を言い表しています。キリスト者は、自由な主人です。何ものにも服さない。誰の奴隷でもない。神の子としての自由に生きます。しかし、いや「だからこそ」というべきでしょう、キリスト者はすべての人の奴隷であって、誰にも仕える。この二つが同時に成り立つところに、聖書が語る自由の秘密があります。
それは、今日私たちに与えられている聖書の御言葉の主題でもあるのだと思います。私たちは自由へと招かれました。キリストが招いてくださいました。キリストが私たちを自由にしてくださったのは、それによって私たちが自分を満足させるためではありません。自分の欲望をかなえたり、自分一人が勝手に豊かになったりするための自由ではありません。私たちは、隣人のために自由にされました。キリストは、私たちに隣人を愛するための自由を与えてくださったのです。
思えば、それはキリストご自身が得ておられた自由です。キリストは神の子として、何でもすることがおできだったでしょう。荒れ野で悪魔に誘惑されたときも、石をパンに変えたり、高いところから飛び降りたり、世界中の栄華をご自分のものにすることだってできたはずです。しかし、キリストはそうなさらなかった。それでは私たちの救いにならないからです。私たちを救うためには、ご自分が十字架にかかるしかなかったから、キリストは私たちを愛するために、私たちに仕えてくださいました。キリストは、そうやってご自分の自由を発揮してくださったのです。
私たちも、神の子の自由に生きるように招かれています。自由な神の子であるキリストの御業は、私たちの内にすでに始まっています。

2024年4月20日の聖句

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