2025年12月15日月曜日

2025年12月15日の聖句

彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。(イザヤ53:5)
私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)

神は私たちに御子を与えてくださいました。あまりにも大きなその事実を祝うクリスマスを迎えようとしています。主イエス・キリストは私たちの間に一人の女からお生まれになり、私たち人間の一人になってくださいました。神の子でいらっしゃるお方が人になられた。そして、それだけではなく、主イエスは十字架の死に至るまでへりくだり、従順を貫かれました。神さまはそこまで徹底して御子を私たちのために与えてくださいました。
「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。」
これは、私たちキリスト者の確信です。神は御子を私たちに与えてくださったお方。ご自分の独り子を私たちと同じ人間になさり、十字架にまでかけられることをお許しになった。そこまで徹底して御子を与えてくださったお方は、御子と一緒にその他のすべてのものを私たちに与えてくださらないはずはない!
ですから、私たちのあらゆる不満やつぶやき、「足りない」と言い続ける貪欲には居場所がないということなのだと思います。どうしたって私の中にはそういう心が根を下ろしてどっかりと居座ってしまっています。そのことに気付く度に、主イエスを見上げます。「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。」十字架にかけられたこのお方を仰ぎ、このお方を愛し、生きていきたい。私たちの願いはその一事に尽きます。

2025年12月14日日曜日

2025年12月14日の聖句

今週の聖句:
主の道を備えよ。見よ、主は力を帯びて来られる。(イザヤ書40:3,10)

今日の聖句:
主よ、あなたに呼びかけます。わが大岩よ、沈黙しないでください。(詩編28:1)
(百人隊長によるイエスへの願い)ただ一言おっしゃってください。そうすれば私の僕は癒やされます。(ルカ7:7)

異邦人であるこの百人隊長の僕が病気で死にかけていました。この人はユダヤ人からとても信頼されていたようです。ユダヤ人の長老たちがこの人に代わって主イエスのところへ来て、百人隊長の僕を癒やしてくださるようにお願いしました。すると主は一緒に来てくださった。主が来てくださっていることを知った百人隊長は友人たちを送って言わせます。「主よ、ご足労には及びません。私はあなたをわが家にお迎えできるような物ではありません。ただ一言おっしゃってください。そうすれば私の僕は癒やされます。」主イエスはこの人の信仰をとてもお喜びになりました。
この百人隊長は、主イエスの御言葉の力、その権威を信じていました。主がひと言おっしゃってくだされば必ず救いの出来事が起こる。そのことを確信しています。私たちも同じキリストの御言葉に耳を傾け、このお方の恵みの言葉によって生かされています。
私たちにとって大切なことはただ一つです。神の言葉。キリストの言葉。それは「主よ、あなたに呼びかけます。わが大岩よ、沈黙しないでください」と旧約の時代を生きた信仰者が祈っているとおりです。神が御言葉を語り、私に語りかけてくだされば私は生きられる。神さまが語りかけてくださる一つひとつの言葉によって、私たちは神の恵みの中に招かれ、そこで立つことができるのです。だから、今日もひたすら、一筋の心でキリストの言葉を待ち望みましょう。

2025年12月13日土曜日

2025年12月13日の聖句

見よ、その日が来る。この都が主のために再建される日がーー主の仰せ。(エレミヤ31:38)
また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にある」。(黙示録21:2~3)

前597年にユダ国はバビロンという国に破れ、神殿や王宮の財宝、国の要人が連れ去られてしまうという事件が起きてしまいました。第一回バビロン捕囚と呼ばれています。そしてその10年後の前587年にはエルサレムの都が陥落し、神殿も破壊され、ユダ国は滅亡しました。この時にもたくさんの人がバビロンへ強制連行された。こちらは第二回バビロン捕囚と言います。
今日の旧約の御言葉は、恐らく第一回バビロン捕囚と第二回バビロン捕囚の間に語られたものです。周囲には崩壊と危機があった。ところが当時ユダ国内にいたエレミヤ以外の預言者は、捕囚はほんの数年で終わるという楽観的で、人々に受けの良い言葉ばかりを語っていました。エレミヤはそのような楽観論に与せず、しかしいたずらに不安をあおるのでもなく、神に「語れ」と命じられたことだけに徹しました。「見よ、その日が来る。この都が主のために再建される日が」と、主は仰せになっている。エレミヤは神の言葉だけに立ちます。
このエレミヤの言葉は、エレミヤ自身も思ってもみなかったほどに大きなスケールでやがて完全な成就を迎えます。「また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人と共にある』」。
神ご自身が私たちと共にいてくださる。新しいエルサレムの都が私たちのところに来る。神が私たちと共に住んでくださる。この時を目指して、私たちも生きています。エレミヤの時代も、現代も、それぞれに課題は多く、厳しい時代です。この時代の中で私たちはただ神のみを見上げ、主の民として生きていくのです。

2025年12月12日の聖句

ああ、あなたが天を引き破って降臨してくださるのであれば。(イザヤ63:19)
(天使のマリアへの言葉)「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。」(ルカ1:31~32)

天を引き破って、神ご自身が降りてきてくだされば!
天というのは神がおられる領域という意味でもありますが、それだけではなく神ご自身を婉曲的に示す表現でもあります。神がご自身を引き破って私たちのところに来てくださる。それは造られた世界のすべてが揺れ動くような出来事です。
「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。」
そうして来てくださった主イエス・キリスト。このお方は私たちのところへ来てくださった神ご自身です。神は実際にご自分を引き破って私たちのところにまで降りてきてくださいました。神ご自身でいらっしゃる方が一人の人間の子どもになられたのです。
神さまは私たちを救うために、天のかなたから手を伸ばすという方法をお選びにはなりませんでした。私たちのところにまでご自分を引き裂いて降りてきてくださった。いと高き神の子を私たちの間に与えてくださった。私たちが神のところに上ったのではなく、神が私たちのところに来てくださったのです。
私たちがちょっとはマシになって神さまに近づくのではありません。私たちがもっと信仰深くなって神さまをお迎えできるに足るようになるのではありません。神さまから相変わらず遠く、神さまを知ろうともしない私たちのところへ神がご自身を引き裂いて来てくださったのです。私たちは、ただただ後からそのことを知らされるだけなのです。

2025年12月11日木曜日

2025年12月11日の聖句

私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ。(エレミヤ31:3)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

神さまの愛は私たちにはあまりにも広く、長く、高く、深くて、想像が及びません。「私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ。」とこしえの愛、と神さまは言われます。私たちは「とこしえの愛」を知りません。私たちの愛はどんなに純粋でも限りがあるし、そもそも私たちはとこしえに生きられる存在ではない。しかし神さまの愛はとこしえです。私たちは神さまの愛にすっぽりと包み込まれている。
そのことを思うと「愛」という同じ言葉で神さまの愛と私たちの愛とを言い表してよいのだろうか、とさえ思います。あまりにも質が違う。私の持っているものはあまりに身勝手で、損得ばかりが先に立ち、「愛」という言葉をあてるのがはばかれるようなものでしかない。愛と言いながら愛でも何でもないという私の現実は、罪という言葉で言わねばならない現実であるのかもしれません。
しかしそうであるからこそ、神さまはとこしえの愛で私たちを愛して下さっているのではないでしょうか。神さまは、ご自分のとこしえの愛を最上の仕方で現してくださいました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これほどの愛は他には絶対に存在しません。神であるお方が、造られたものに過ぎない私たちのために独り子を与えてくださったのです。私たちにあるものは愛と呼ぶことのできないつまらないものでしかないけれど、それでもなお神は私を永遠の愛で愛し、独り子を与え、私をご自分のものとしてくださった。私にあるのはその事実だけ。それでよい。それだけでよいのです。

2025年12月10日水曜日

2025年12月10日の聖句

主なる神よ、あなたはまことに大いなる方。私たちの知るかぎり、あなたのような方はなく、あなたのほかに神はありません。(サムエル下7:22)
私はアルファでありオメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである。(黙示録22:13)

すべてのものには初めがあって、終わりがあります。この宇宙全体の初めは、ビッグバンでしょうか。それでは、終わりは?こちらにもいくつかの説があるようです。初めや終わりがどのようなものであったとしても、それもまた神の御手の中にあると私たちは信じています。
しかし、もっと私たちにとって身近で重要なのは、この私自身の始まりと終わりだと思います。私は私自身の力で命を始めることはできないし、終わりも自分で決めることはできません。それは神さまの御手の中にある。私たちにとっては「死」も謎に包まれた闇ですが、それだけではなく、生まれる前のことも謎です。私も、それどころか父も母もまだ生まれていなかったとき。私はどこにも存在していない。父母未生以前の闇もまた恐るべきもの。しかし、そのすべてを神が治めておられます。
「主なる神よ、あなたはまことに大いなる方。私たちの知るかぎり、あなたのような方はなく、あなたのほかに神はありません。」
へりくだって、このお方を畏れ、敬うということこそが私たちの人間らしい姿なのだと改めて思わされます。人間としての分を知り、限られた命の有り難さに感謝し、与えられた者に満足すること。そういう人間らしさを取り戻したい。そのように思わされています。

2025年12月9日火曜日

2025年12月9日の聖句

あなたが白髪になるまで、私は背負う。
私が造った。私が担おう。
私が背負って、救い出そう。(イザヤ46:4)
本当にやもめである人をやもめとして大事にしてあげなさい。(1テモテ5:3)

今日の旧約聖書の御言葉は、偶像礼拝について書かれている文脈に出てきます。「あなたがたは私を誰に似せ、誰と等しくしようとするのか。私を誰と比較し、似せようとするのか。」そして、金や銀で細工師に神を造らせて、それにひれ伏し、拝んでいる。そして「彼らはそれを肩に乗せ、背負っていき、しかるべき場所に据える。」つまり、人間が造り、背負って運び、それにひれ伏すのが偶像、ということになると思います。
ところがまことの神さまはそうではない。「あなたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。」神が私たちを造ってくださった。神が私たちを背負い、担ってくださる。人間が造ったものは神ではない。人間が背負うことができるようなものは神ではない。私たちは神さまの背に担って頂いて、生かされています。
そうであるからこそ、私たちはお互いの重荷を担い合い、共に生きるために愛をもって互いを尊重します。「本当にやもめである人をやもめとして大事にしてあげなさい。」神が私たちを背負ってくださっているのですから、私たちも互いを担い合うのです。

2025年12月15日の聖句

彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。(イザヤ53:5) 私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。(ローマ8:32) 神は私たちに御子を与えてくださいました。あま...