2026年1月29日木曜日

2026年1月29日の聖句

わが神、主よ、あなたが私たちにお示しくださった
驚くようなみわざと
その思い計らいは偉大です。
あなたに並ぶ者はありません。(詩編40:6)
すると、その(癒やされた)人は起きて、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚嘆し、「このようなことは、今まで見たことない」と言って、神を崇めた。(マルコ2:12)

今日の新約聖書の御言葉は、体の麻痺した人を癒やしてくださった主イエスの御業を伝えています。この人は自分では動けませんでしたが、四人の仲間たちが彼を主のもとへ連れて来てくれました。この人が来たとき、最初に主イエスは「あなたの罪は赦された」とおっしゃいます。ところが人々は心の中でつぶやきました。「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒瀆している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。」主はそのつぶやきを見抜き、ご自分が罪を赦す権威をお持ちでいらっしゃることを示そうとおっしゃって、宣言なさいました。「起きて、床を担いで歩け」と。
つまり今日の御言葉の癒やしは、主イエスの罪の赦しの権威の徴です。主イエスはただ単に人を癒やす奇跡の力を持ちだ、ということではない。それ以上のお方です。神にしかおできにならないこと、つまり罪を赦すことがおできになる方です。神の子として私たちの罪を赦すことができる方です。
キリストが私たちのところへ来られたからには、そこに罪の赦しの出来事が起こります。その事実を私たちは畏れをもって受け止めたいのです。主に並ぶ者は他にはいない。主がおられるところに神の国が始まっている。罪の赦しを宣言する救いの出来事が始まっているのです。
中風の人に罪の赦しを宣言したとき、その場にいた律法学者はつぶやきました。新しい神の御業を受け入れることができなかったからです。へりくだってキリストの言葉に耳を傾けましょう。ここにこそ救いがあることを謙遜に信じたいのです。

2026年1月28日水曜日

2026年1月28日の聖句

主よ、私を見捨てないでください。
わが神よ、私から遠ざからないでください。(詩編38:22)
(ヤイロは)しきりに願った。「私の幼い娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(マルコ5:23)

ゲルトルート・ヒンネマンという人がこのような祈りの言葉を残しています。
「神さま、私を助けてください。もし私が逃れることができないのなら、この苦しみと痛みを受け入れられるように。
経験させてください。私の生涯のこの時に、あなたが共にいてくださることを。
経験させてください。私が愛する人々とも、あなたが共にいてくださることを。
助けてください。私が今いるこの状況で私を支えてくれるすべての人たちを。
お支えください。私自身ではもう耐えることができないところで。」
私たちもこのヒンネマンさんのように、あるいは詩編第38編の言葉を祈ってきた代々の信仰者のように、そしてヤイロのように、主に祈って良いのです。「主よ、助けてください」と。主よ、私から遠ざからないでください。見捨てないでください。大胆にそう祈り、主の助けを求めましょう。
主に助けを求めるときには誰もが切実ですが、中でもヤイロの切実さは他を寄せ付けないところがあります。大切な人、愛する人のための執り成しの祈りです。主は、私たちがかけがえのない人のために祈り、主の助けを求めて祈ることを待っておられるのです。

2026年1月27日火曜日

2026年1月27日の聖句

私の思いは、あなた方の思いとは異なり
私の道は、あなたがたの道とは異なるーー主の仰せ。(イザヤ55:8)
さて、「今日か明日、これこれの町へ行って一年滞在し、商売をして一儲けしよう」と言う人たち、むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。(ヤコブ4:13,15)

私たちには私たちなりの計画があります。「今日か明日、これこれの町へ行って一年滞在し、商売をして一儲けしよう」。どう生きるのか、何をするのか、どんな仕事をしてどこで過ごすのか。そういうことに思いを巡らすのは自然なことですし、それ自体は責められるべき事ではないと思います。むしろ、自分の人生に責任をもって生きるためには、これからへの見通しを持つことはとても大切だと思います。
しかし、主は言われます。そのように言って計画を立てるよりも、むしろ私たちが言うべき言葉がある。「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」。私たちにいちばん大切なのは主が何をしておられるのか、ということです。主はどこに進んでおられ、今何をしておられるのか。私たちは自分の計画ではなく、主の計画の中で生きる者です。
時に、主は私たちの計画やしようとしていたこと、進もうとしていた道を閉ざしてしまわれます。私たちが自分の進もうとしているところに行くことをお許しにならないことがある。自分の道が閉ざされるのはとても辛いことです。しかし、それは同時に尊い瞬間です。自分の描いた道が閉ざされたときは、神の御心が進もうとしているときだからです。「私の思いは、あなた方の思いとは異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なるーー主の仰せ」。私の思いや願いとは異なる主の思い、主の御心が成ることこそ、私たちの真の幸せへの道でもあるのです。

2026年1月25日日曜日

2026年1月25日の聖句

今週の聖句:
人々は、東から西から、また北から南から来て、神の国で宴会の席に着く。(ルカ13:29)

今日の聖句:
私は、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、地と、地の面にいる人と動物を造った。そして、私の目に適う正しい者にそれを与える。(エレミヤ27:5)
神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されて以来、その筋をきちんと追ってさえすれば、その御業の内に見て取ることができます。(ローマ1:20)

自然は私たちの力の外にあります。現代を生きる私たちはそのことで勘違いをしがちです。人工的な降雨技術を開発したり、生命のかたちを変えたりする研究もありますが、私たちは勘違いして高慢にならないように気をつけねばならないと思います。いい気になってはならない。私たちにできることは小さな事でしかない。日本海側で今降りしきる大雪を止めることも、干ばつを解決することもできない。私たちは造られたものです。人間の分際です。その点でのへりくだりは、とても大切ではないでしょうか。
しかし、神はそうではない。神はすべてのものの造り主です。「私は、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、地と、地の面にいる人と動物を造った。そして、私の目に適う正しい者にそれを与える。」造ったお方の前での謙遜、造られたものとしてのわきまえを失うと、人間は簡単に怪物になってしまいます。
今日の新約の御言葉はこのように言います。「神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されて以来、その筋をきちんと追ってさえすれば、その御業の内に見て取ることができます。」そのような神の御業を仰ぐまなざしを持つならば、私たちは、神の御業を畏れ、自分の小ささをわきまえ、造り主を礼拝し、崇める以外にはないのではないでしょうか。キリスト教会はそのようにして神を崇める者たちの群れです。

2026年1月24日土曜日

2026年1月24日の聖句

その集いは私の前に揺るぎなく立てられる。(エレミヤ30:20)
あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石はキリスト・イエスご自身です。(エフェソ2:20)

今日の旧約聖書には「その集いは」と書かれています。どの集いのことか。聖書を開いて確かめてみると、この文章の一行前に「ヤコブの子らは昔のように栄え」と書かれている。今日の御言葉はその続きです。ここに「ヤコブ」とある。ここでの「ヤコブ」というのは「イスラエル」と言い換えることができます。つまり、北王国イスラエルを指している。そして、預言者エレミヤが活動していた時代、既に北王国イスラエルは滅びていました。ですから「ヤコブの子らは昔のように栄え」と、ここでは「昔のように」と言っている、ということになります。
少し細かい話になってしまいました。改めて今朝の旧約には「その集いは私の前に揺るぎなく立てられる」と書いてあります。「その集い」すなわちヤコブを神は再び立たせてくださる。既に滅び、散り散りになってしまったかつての神の民イスラエルを神が再び立たせてくださる、と主は言われます。
私たちが神の民として立ちうるのは、神が私たちを立たせてくださるからです。神が立たせてくださるのであれば、例え滅びたヤコブでも再び立つことができる。神には私たちを神の民にすることがおできになる。どのようにして私たちを一つの民にするのか?その秘密が今日の新約です。「あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石はキリスト・イエスご自身です。」私たちは使徒や預言者から成る土台、つまり福音の言葉という土台によって立てられている。聖書の証しする福音の言葉が私たちを神の民、教会として建てる。そのように言っているのです。
私たちを一つの教会、一つの民としてくださる神の言葉に耳を傾けましょう。そして、この言葉に力を頂いて、一つになりましょう。私たちの人間的なつながりではなく、神の言葉が私たちを一つにするのです。

2026年1月23日金曜日

2026年1月23日の聖句

主は代々とこしえに治められる。(出エジプト記15:18)
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。(ルカ1:33)

主イエスこそ真の王であって、その支配は終わることがない。聖書はそう証言します。そもそも「キリスト」という言葉の基本的な意味は「王」です。イエスを「キリスト」とお呼びするとき、その最も土台にある意味は「王であるイエス」です。真の王、真の支配者としてのイエスを私たちは崇め、礼拝しているのです。
主イエスがエルサレムに入城する場面が聖書に描かれています。主は子ろばに乗ってエルサレムに入城なさいました。それを見た群衆は自分の上着を道に敷き、木の枝を振って「ダビデの子にホサナ」と叫びました。一つひとつが王をお迎えするための仕草です。群衆も主イエスを王として崇め、お迎えしたのです。
しかし、この時の群衆は、そして私たちも同じですが、イエスが王でいらっしゃるということの意味を誤解していたと思います。私たち人間はいつでも「真の王」の意味をはき違えます。ユダヤ人たちはローマに打ち勝つ王国を打ち立てる王を望んでいたのでしょう。私たちも、私たちの思い描く「成功」や「繁栄」、あるいは「自己実現」に仕えてくれて、それを達成させてくれる王を求めます。王を迎えているようでありながら、自分の僕になって仕えてくれて、自分の願いを果たしてくれる「王様っぽい存在」を求めてしまうのが私たち人間の現実ではないでしょうか。
しかし、主イエスは真の王として私たちのところへ来ました。このお方の玉座は十字架であり、このお方の栄光は死者の中からの復活です。私たちの願いや期待の外にこの方はおられる。私たちの願いを超えて、本当に私たちに必要な救いをくださるのはこのお方です。真の王でいらっしゃるこのお方が永遠に私たちを治め、その支配には終わりがありません。私たちはこのお方の民として王イエスを崇め、礼拝します。

2026年1月22日木曜日

2026年1月22日の聖句

主は、彼らを苦しめる者の手から贖い
国々の中から集めてくださった
東から西から、北から南から。
主に感謝せよ。
その慈しみと
人の子らになされた奇しき業のゆえに。(詩編107:2b,3,8)
あなたがたは世にあって希望を持たず、神もなく生きていました。しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。(エフェソ2:12~13)

私たちは心を合わせて祈り、思いを一つにして神を賛美します。神が私たちを一つの民としてくださいました。ですから私たちは喜んで神に礼拝を献げます。「主は、彼らを苦しめる者の手から贖い、国々の中から集めてくださった、東から西から、北から南から。」神が私たちを呼び集めてくださったのです。私たちは、今も主なる神さまの御前にいます。主が私たちを祈りへ招いてくださったからです。
私たちはかつては神を知らず、祈ることを知りませんでした。主イエス・キリストにある喜びも、神に賛美を献げる恵みも知りませんでした。しかし、以前は遠く離れていた私たちを一つに結んでくださったのは神さまです。キリストの血によって私たちを一つにしてくださいました。このお方を共に信じ、共に崇め、一つの民として生きる喜びが私たちに与えられています。
キリストの恵みが今日もあなたにありますように。

2026年1月29日の聖句

わが神、主よ、あなたが私たちにお示しくださった 驚くようなみわざと その思い計らいは偉大です。 あなたに並ぶ者はありません。(詩編40:6) すると、その(癒やされた)人は起きて、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚嘆し、「このようなことは、今まで見たことない...