あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。(エゼキエル36:26)
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。(マタイ5:44~45)
主なる神さまが約束してくださいました。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。」神が私たちに新しい心を与えてくださる。私たちの内に新しい霊を授けてくださる。神さまが私たちを新しくしてくださいます。
「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と主イエスがおっしゃいました。私たちが敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるとしたら、それは神ご自身の霊が働いてくださっているからという事実以外に理由がないのではないでしょうか。私たちは神ご自身が私の内で働いてくださっているからこそ、キリストに倣って生きることができるのではないでしょうか。
しかし、自分の現実を考えると、敵は憎いし、迫害する者には地獄に落ちてほしいと思ってしまっています。そうすると自分は本当に神さまを信じていると言えるのか、そう言える資格があるのか、と考えざるを得ない。ただ、もう少し考えてみると、そういう自分の心の中で起きているのは、単に相手が憎いとか呪ってやろうとか、そういう思い一色というわけでもありません。憎たらしい思いと、どうやったら愛せるのかという思いもあって、その葛藤、二つの心のはざまでどうしたら良いのか分からないということなのかもしれません。
私は、そのせめぎ合いが既に聖霊のお働きの証拠なのではないかと思います。私たちは本当にどうしようもない罪人でしかないけれど、そんな私の内にも神ははたいてくださっていて、愛の願いを起こしてくださっている。それもまた事実です。そういう神の出来事が私の内にも働き始めていることを信じ、受け入れて、なお「愛をもって生きさせてください」と神に願って歩みたいのです。
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。(マタイ5:44~45)
主なる神さまが約束してくださいました。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。」神が私たちに新しい心を与えてくださる。私たちの内に新しい霊を授けてくださる。神さまが私たちを新しくしてくださいます。
「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と主イエスがおっしゃいました。私たちが敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるとしたら、それは神ご自身の霊が働いてくださっているからという事実以外に理由がないのではないでしょうか。私たちは神ご自身が私の内で働いてくださっているからこそ、キリストに倣って生きることができるのではないでしょうか。
しかし、自分の現実を考えると、敵は憎いし、迫害する者には地獄に落ちてほしいと思ってしまっています。そうすると自分は本当に神さまを信じていると言えるのか、そう言える資格があるのか、と考えざるを得ない。ただ、もう少し考えてみると、そういう自分の心の中で起きているのは、単に相手が憎いとか呪ってやろうとか、そういう思い一色というわけでもありません。憎たらしい思いと、どうやったら愛せるのかという思いもあって、その葛藤、二つの心のはざまでどうしたら良いのか分からないということなのかもしれません。
私は、そのせめぎ合いが既に聖霊のお働きの証拠なのではないかと思います。私たちは本当にどうしようもない罪人でしかないけれど、そんな私の内にも神ははたいてくださっていて、愛の願いを起こしてくださっている。それもまた事実です。そういう神の出来事が私の内にも働き始めていることを信じ、受け入れて、なお「愛をもって生きさせてください」と神に願って歩みたいのです。