2024年11月21日木曜日

2024年11月21日の聖句

明かりを持たずに闇を歩くときでも主の名に信頼し、自分の神を支えとする。(イザヤ50:10)
闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いています。(1ヨハネ2:8)

ボーイスカウトでキャンプに行ったときのことです。大抵、木が生い茂っている場所でキャンプをしていました。夜になると真っ暗です。特に春のキャンプはまだ寒く、夜はさらに冷えてきますから、暗くて寒くてとても惨めでした。ところが懐中電灯の光が灯ると、とっても心強く、少し元気になったことをよく覚えています。
ところが今日の御言葉はさらにその先を行っています。「明かりを持たずに闇を歩くときでも主の名に信頼し、自分の神を支えとする。」真っ暗な中、明かりを持たなくても主の御名に信頼している。神を支えとしている。なぜか。主なる神様ご自身が私の光、と信じているからでしょう。それ以外の理由は考えられません。神が私の光でいてくださる。現代社会を生きる私たちが忘れている完全な暗闇の中で、このひとりの信仰者はそのように言うのです。
主イエス・キリストこそ私たちの光です。「闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いています。」主イエス・キリストというまことの光が私たちを照らす明かりとなってくださっている。私たちは闇の中に生きています。夜の闇よりももっと深い闇。罪の闇であり、悪の闇です。しかし神がそのような私たちが棲む闇を照らす光となってくださった。曙の光のように私たちを照らしてくださった。それがキリストというお方によって私たちにもたらされた新しい出来事。福音はそのように語り出すのです。

2024年11月20日水曜日

2024年11月20日の聖句

主は恵みに満ち、憐れみ深く、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても、思い直される。(ヨエル2:13)
(ぶどう園の主人に)園丁は答えた。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それでも駄目なら、切り倒してください。」(ルカ13:8~9)

ぶどう園にいちじくの木が植えられました。ぶどう園の主人は三年も実りを待っていましたが、一向に実を結ぶ気配がない。遂に堪忍袋の緒が切れて、園丁に「切り倒してしまえ」と言いました。それに対する答が今日の御言葉です。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それでも駄目なら、切り倒してください。」
これは主イエスの譬え話です。もちろん、畑仕事の話そのものが伝えたいメッセージではない。私たちの話をなさっています。「私」といういちじくが、神さまの期待する実りを一向に結ぼうとしない。「切り倒してしまえ」と神がおっしゃったとき、園丁である主イエスが言ってくださるのです。「父よ、今年もこのままにしておいてください。なんと髪を結ぶように私が世話をします。もし来年実を結べばよし、それでも駄目なら、切り倒してください。」・・・。どうでしょうか。やはり、最後が気になります。やはり、実を結ばなければ切り倒されてしまうのでしょうか。
私たちの園丁であるキリストは恵みに満ち、憐れみ深いお方です。もしも約束の時に実を結んでいなかったら、言ってくださるに違いない。「父よ、どうかもう一年だけ待ってください。私が責任をもちますから。」私たちはキリストの恵みと憐れみのお陰で、今日生きているのです。その憐れみに応えるために、私たちは今日どのような実りを結ぶのでしょうか?

2024年11月19日火曜日

2024年11月19日の聖句

私たちの魂は小鳥のように救い出された。仕掛けた者らの網から。網は破れ、私たちは救い出された。(詩編124:7)
イエスの話を聞くために、また病気を治してもらうためにきていた。汚れた霊に悩まされていた人々も癒やされた。(ルカ6:18)

主イエス・キリストは私たちを自由にしてくださいます。病も、汚れた霊も、私たちを捕らえることはできない。
私たちは比較的軽いものから重いものまで、さまざまな病に冒されます。それは、どのようなものであっても苦しいです。治らないこともある。しかし、私たちは病に支配されない。キリストが解放してくださった。キリストが自由を得させてくださった。病を知っておられる方が私たちの辛いところに手を伸ばしてくださっています。
「汚れた霊」は、病に比べて私たちにはイメージしにくいかもしれません。しかし私たちを捕らえる悪の力を「汚れた霊」と言い表す聖書のまなざしは鋭いと思います。一人ひとりの心がけや自覚、社会の中に時々出て来るかけ声やスローガンのようなものではどうすることもできない悪の力を、私たちもしばしば目にします。汚れた霊、悪霊。私たちの目には見えない、そして私たち人間の力を超えた悪の威力が確かにあると言わねばならないと思います。
しかし、私たちはそのような悪の力に対しても自由です。キリストが悪に打ち勝ってくださったからです。汚れた霊に悩む私たちをキリストが自由にしてくださいました。
「私たちの魂は小鳥のように救い出された。仕掛けた者らの網から。網は破れ、私たちは救い出された。」今日も生きて働いておられる神があなたを自由にしてくださるのです。この世に吹き荒れる悪の風は強い。しかし、自由な者らしく生きたいと願います。

2024年11月18日月曜日

2024年11月18日の聖句

いと高き方、あなたを喜び、祝い、その名をほめ歌おう。(詩編9:3)
主にあっていつも喜びなさい。(フィリピ4:4)

いつも喜びなさい、と言っています。「いつも」というのは、すごい言葉です。いつも喜べるわけではないし、いつも喜ばしいことがあるわけでもありません。喜びとは遠く離れたようなことも私たちには多い。そんな私たちがいつも喜べるとしたら、その理由はただ一つです。「主にあって」と言うとおり、主イエス・キリストにある喜び。これはいつどんなときにも変わることがない。キリストこそ私たちの変わることのない喜びの源泉です。
夏に富士宮に旅行に行きました。宿泊先のすぐ側に、白糸の滝という大きな滝があります。たくさんの観光客がいます。勇壮な眺めです。そこから少し外れたところに、お鬢水(おびんみず)という小さな泉があります。源頼朝が美しい水面を鏡にして髻を整えたという逸話が残っている場所なのだそうです。寂れていて殆ど人が来ることのない場所で、静かに、しかし確実に水が湧き出ている。小さな泉です。私は主にある喜びというのは、そういうイメージではないかと思います。人目に付く派手な喜びとか、大きなうれしさとか、そういうことではない。誰の目にも得に触れることなく、しかし確実に湧き出る泉のような喜び。静かな、しかし確かな喜び。キリストという命の水の湧き出る泉を私たちは知っています。
「いと高き方、あなたを喜び、祝い、その名をほめ歌おう。」私たちはキリストにある喜びを抱いて、主なる神さまを礼拝します。キリストを祝い、喜びを献げます。私たちのこの小さな営みを、神がその永遠の御心を持って憶えていてくださいます。

2024年11月17日日曜日

2024年11月17日の聖句

今週の聖句:
私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされなければならない。(2コリント5:10a)

今日の聖句:
あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っているーー主の仰せ。
それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。(エレミヤ29:11)
被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。(ローマ8:21)

なんとありがたい言葉なのでしょう!神が私たちのために立ててくださった計画、しかも主ご自身が誰よりもよくご存じでいてくださる計画、それは災いの計画ではない。私たちのために将来と希望を与える平和の計画だ、と主は仰せになります。神さまの御心は私たちに希望を与えるもの。私たちを平和へと導くもの。私たちは安心して神を信じてよいのです。なんとありがたいことでしょう!
私たちの希望、そしてこの世界にあるすべての造られたものの希望、それはこれです。「被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。」私たちは奴隷になっている。滅びの奴隷です。死と罪と悪の奴隷です。しかし神が私たちを解放してくださる。自由にしてくださる。私たちを神の子としてくださる。そして、この世界のすべての造られたものが、私たちの神の子としての栄光と自由にあずかる。壮大な希望を、私たちはキリストにあって抱いています。
ですから、今日の一日を自由な人間として生きていきましょう。私たちの神の子としての自由の何よりも発露は神を信じることであり、神に祈ること、賛美を献げること、福音を聞き、信じ、従うことです。私たちはキリスト者として生きる自由に招かれています。今日の、そしてこの一週間のあなたの歩みが神の子の自由に生きるものでありますように。祝福を祈ります。

2024年11月16日土曜日

2024年11月16日の聖句

私がエルサレムに対して行うあらゆる恵みの業について彼らが聞くとき、この都は地上のすべての国民にとって喜ばしい名声、賛美、誉れとなる。(エレミヤ33:9)
群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。いと高き所にホサナ。」(マタイ21:9)

エルサレム。イスラエルの王宮があり、そして何よりも主の神殿が置かれた町。しかし今は悲しい歴史が重ねられた町になってしまいました。主イエス・キリストはこのエルサレムに来てくださった。私たちはそのことを忘れることはできない。「ダビデの子にホサナ。」人々はそう叫んで主イエスを迎えました。「ホサナ」というのは、「救ってください」という意味の言葉です。主イエスをお迎えするにふさわしい言葉です。「主の名によって来られる方に祝福があるように。」そう叫んでお迎えしたお方が、ほんの数日後にエルサレムの町外れで十字架にかけられ、殺された。
エルサレムは私たちの罪を象徴する存在です。神の子が十字架にかけられた場所です。そしてこの町を巡って、歴史の中でどれほどたくさんの争いが重ねられてきたことでしょう。それが今も続いている。パレスチナ人は、エルサレムであってもガザであっても、非人間的な扱いを受けています。私たちは見ないで済ませることができてしまっていますが、今もなお私たち人間の罪が深まっています。
私たちは本当に神の助けを、救いを必要としています。私たちの世界の罪の悲惨を一体誰が救うことができるのか。神の憐れみを、神の恵みを、ひたすらな思いで待ち望みます。私たちの悪を打ち破り、救いを実現してくださる神を、私たちは待ち望みます。

2024年11月15日金曜日

2024年11月15日の聖句

人がその子を背負うように、あなたの神、主があなたを背負ってくださったのを、あなたは見た。(申命記1:31)
(弟子たちは)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。(ルカ24:35)

今日の二つの御言葉は、どうしてこの組み合わせなのかと思わせるものです。主があなたを背負ってくださった。そして、パンを裂いてくださったときに主だと分かった、という弟子たちの言葉。この二つの御言葉にどういうつながりがあるのか。
新約聖書はエマオへの道を主と共に歩んだ二人の弟子たちの言葉です。主イエスが復活した日の午後、エルサレムからエマオへ歩く二人の弟子たち。彼らは暗い顔をして歩いていました。そこに一人の男が近づいてきた。どうして暗い顔をしているのか。尋ねられるままに二人はこの数日間の出来事を話します。三日前にイエスが十字架にかけられたこと、今朝になって仲間の女たちが、「イエスは生きておられる」と言い出したこと。彼らはその復活の知らせを聞いて戸惑い、顔が暗くなっていたのです。その言葉を聞いた見知らぬ男、つまり主イエスは、エマオへの道すがら二人に聖書をときあかし、メシアは苦しみを受けて、栄光に入るはずだったと話してくださった。
エマオに着き、三人は共に食卓を囲みました。イエスがパンを裂いてそれを与えてくださったとき、彼らはそれが主であることに気付いた。エマオへの途上、主が聖書を話してくださったとき、私たちの心は燃えていた!そう語り合ってエルサレムへ戻り、仲間たちに言ったのです。「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」
ここまで新約の御言葉を読んで気付きます。あのエマオへの途上はすべて、主イエスに背負って頂いた道だった、と。主イエスご自身の背に乗せられ、信仰への道を運ばれていた。主が語り、主がパンを裂き、その恵みにあずかる道は、主の背中での歩みです。私たちは自分で歩いているようなときにも主に負われている。今日のあなたの祈りの道も、主が折ってくださっている恵みの道です。

2024年11月21日の聖句

明かりを持たずに闇を歩くときでも主の名に信頼し、自分の神を支えとする。(イザヤ50:10) 闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いています。(1ヨハネ2:8) ボーイスカウトでキャンプに行ったときのことです。大抵、木が生い茂っている場所でキャンプをしていました。夜になると真っ暗です...