2024年10月28日月曜日

2024年10月28日の聖句

あなたは私の魂を陰府に捨て置かれない。(詩編16:10)
イエスは(マルタに)言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25~26)

「あなたは私を陰府に捨て置かれない。」私たちは、やがて死んでいくものです。脆くて、弱い存在です。健康であっても病気になるし、若くてもやがて老います。いや、健康であっても若くても、私たちの命は今日どうなるかも分かりません。死は、私たちが知らなくても私たちの目の前にあります。しかしそれでも、主なる神さまは私たちを陰府に捨て置くことはなさいません。私たちの命は必ず終わりを迎えるし、私たちはいつか葬られるときが来る。私たちは土の塵に過ぎません。しかし、そんな私たちを神は見捨てず、見放さず、陰府に捨て置くことは決してなさらない。それが聖書の約束です。
主イエス・キリストがその約束を確かなものとしてくださいました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」主イエス・キリストご自身が私たちの命でいてくださる。墓から復活したキリストの命を私たちは生きることができる。私たちは死んでも生きる。
この言葉は、自分の兄弟を亡くしたばかりの一人の女性に語りかけられたものです。愛する人を失った私たちにも、キリストは同じように語りかけてくださっています。「このことを信じるか」と、ご自分の命を与えるという約束を込めて私たちに語りかけてくださっています。

2024年10月27日日曜日

2024年10月27日の聖句

今週の聖句:
赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れられるために。(詩編130:4)

今日の聖句:
聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。(申命記6:4)
働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。(1コリント12:6)

今、「多様性」という言葉が盛んに語られています。さまざまな個性や背景や事情を持っている人がいることを重んじ、その多様なあり方を尊重しようという考えであると思います。それはとても大切なことで、「統一」とか「規律」とか言ったときに、それはしばしば多数の意見を当たり前として少数者に押しつけるということになりかねません。多様性が認められない社会は少数者にとっては恐怖そのものであると思います。
ただ他方ではこの言葉があまり良くない仕方で乱用されているようにも思います。自分の欲望を正当化するために「多様性」という言葉が使われている場合もあります。本来は、変えられないものや少数であるために侵害される尊厳を大切にするための考え方であるように思います。
今日の御言葉は、主なる神さまはただおひとりの神でいらっしゃるということを語っています。私たちは唯一の神を信じている。すべての人の内に働いておられるのは唯一の神。私たちはこのお方が限りない愛と慈しみ満ちておられる方でいてくださると信じています。そのことは私たちの社会に一体何をもたらすのでしょうか。私たちは少数者のあり方を尊重し、自分のために人の口を塞ぐのでもなく、私たちを今ある私に造ってくださった神を信じ従うために、この社会をどのように形成していくのか。私たちの生きるこの世界に何を寄与することができるのか。一人のキリスト者として、私たちにもそれぞれ問われているように思います。

2024年10月26日土曜日

2024年10月26日の聖句

主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。(詩編23:1)
(イエスの言葉)私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:11)

今日の旧約聖書の御言葉は、日本聖書協会共同訳が引用されています。この新しい翻訳が出版され実物を手にして、割とすぐにこの詩編の翻訳を確かめました。以前の新共同訳も素晴らしい翻訳でしたが、この詩編の冒頭については少し残念でした。「主は羊飼い」と訳していた。ところが今回の聖書協会共同訳では「主は私の羊飼い」と「私の」という大切な言葉がキチンと訳出されています。この言葉があるかないかで意味が全然変わってきます。ヘブル語の原文には「私の」という字があるので、あるべき言葉が復活しました。
「主は私の羊飼い。」この私のための羊飼いになってくださったのです。このお方は私の羊飼いとして言ってくださいます。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」私たちの羊飼いでいてくださるイエス・キリストは良い羊飼い。このお方の良さは、ご自分の羊である私たちのために命を捨てるところに現れているのだ、と言うのです。破格の羊飼いです。実際に家畜である羊のために命を捨てる羊飼いなどいるでしょうか。考えられません。絶対いません。羊がどんなにかわいかったとしても、羊と人間とは違います。まして神と人間とはもっともっと違います。造り主と被造物です。ところがこのお方は私たちのためにご自分の命を捨ててくださいました。あり得ないほどの「良い羊飼い」でいてくださるのです。
主イエス・キリストは、今日もあなたを緑の野に伏させてくださり、憩いの汀に伴ってくださいます。キリストの恵みが今日もあなたにありますように。

2024年10月25日金曜日

2024年10月25日の聖句

諭しを捕らえて放さず、それに従え。
それはあなたの命だ。(箴言4:13)
だがあなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。あなたは、それを誰から学んだかを知っており、また、自分が幼い頃から聖書に親しんだきたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。(2テモテ3:14~15)

私たちの信仰は、聞くことから始まります。神の言葉を聞くこと、主イエス・キリストに聞くことによって始まります。
それは、人間関係が、他者に耳を傾けることから始まるのと同じです。自分のことばかり話したり、不要なアドバイスばかりしたりする人は健全な人間関係を築くことができません。一方が偉くて他方が従うとか、一方通行でしかないものを関係が構築できていると勘違いするか、そういったことになってしまうでしょう。フラットで良好な関係、健全な人間関係の基礎は、相手の言葉に耳を傾け、相手の言わんとするところを聞く、という奉仕です。「聞く」というのは神に託された尊い奉仕です。
私たちは、神の言葉に聞いているでしょうか。隣人の言葉には耳を傾けているでしょうか。聖書を開き、じっと耳を澄まして御言葉に聞くこと。目の前にいる隣人の言葉に、自分の口を挟まずに耳を傾けること。そうやって「聞く」ことから、私たちのために備えられている命の賜物があることを、私たちは知ることができるのです。

2024年10月24日の聖句

命の泉はあなたのもとにあり、あなたの光によって、私たちは光を見ます。(詩編36:10)
それは命であった。この命は人の光であった。(ヨハネ1:4)

私は小学校5年生のときからボーイスカウトに入っていました。春と夏に少し長いキャンプがありました。特には春はまだ野外でテントを張るには寒く、なかなか大変だった思い出があります。もちろん炊事もすべて外で行います。寒くて暗い夜、冷たい水で食器を洗う。惨めな気持ちになりました。しかしそれでも、闇夜の中でも懐中電灯を照らすと少しホッとしました。小さな光が点ると、元気が湧いてきます。光には不思議な力があると思います。
聖書は主イエス・キリストについて証言します。「それは命であった。この命は人の光であった。」主イエス・キリストは光。古代教会が生み出した信条では、キリストを「光からの光」と告白しているものもあります。すてきな言葉です。私たちはキリストという光に照らされている。
しかもこの光は「命」です。命そのもの。なんと温かく、希望に満ち、慰め深いことでしょう。神は私たちをキリストという光で包んでいてくださる。この命の光によって私たちは望みの中に置かれているのです。
今日私たちが闇のような絶望やたじろいでしまうような恐怖に見舞われるとしても、そんな私たちをキリストという命の光が照らしてくださっていて、そこに望みがあるのです。神の光の中を、歩んでいきましょう。命の光に照らされて、今日も生きていきましょう。

2024年10月23日水曜日

2024年10月23日の聖句

年老いた時、私を見捨てず、私が力衰えても、捨て去らないでください。(詩編71:9)
(ペトロへのイエスの言葉)よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(ヨハネ21:18)

今日の新約聖書の御言葉は主イエスがシモン・ペトロに告げたお言葉です。これに続いて福音書記者のナレーションのような言葉が記されています。今日の箇所から続けて、改めてご紹介します。
「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを占めそうとして、イエスはこう言われたのである。
聖書にはシモン・ペトロの最期は伝えられていません。伝説では皇帝ネロの迫害下、ローマの都で逆さ十字架につけられて死んだと言われています。ポーランドの作家シェンケーヴィチの名作『クオ・ワディス』という小説の最後で迫害の嵐吹きすさぶローマへ向かうペトロの姿が描かれています。忘れられない場面です。
ペトロの殉教は単なる伝説や小説の中のお話ではない。この人は実際に殉教しました。まさに「年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれ」たのです。それでは、そのようにして死んだペトロは神に見捨てられたのでしょうか。神は「年老いた時、私を見捨てず、私が力衰えても、捨て去らないでください」という祈りを無視なさったのでしょうか。
そのようなことは考えられません。ペトロの死をも通して、神の栄光が現されました。だからこそペトロはキリストを信じてキリストに従い続けたのです。このキリストの言葉に身を委ねた。神は私を見捨てず、力衰えたときにも私を決して捨てない。私たちがどのような死を迎えるにしても、神は私を決してお見捨てにはならない。私たちはそのことを信じて、私たちの生きているときも死ぬときも、自分がキリストのものであることを慰めとします。

2024年10月22日火曜日

2024年10月22日の聖句

あなたがたは私の証人ーー主の仰せ。(イザヤ43:10)
(イエスの言葉)あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。(使徒1:8)

私たちを主イエスさまの証人とするのは、神ご自身の霊、聖霊です。神は私たちにも聖霊を送ってくださっています。私たちをキリストの証人として派遣するために。
「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」と主イエスはおっしゃいました。エルサレムは弟子たちが今いる場所。主イエスが十字架にかけられた町です。ユダヤにとっては首都ですが、当時の世界から見たら辺境の地、世界史の周縁でした。しかしその町の小さな家の一室に弟子たちが集まって祈っているとき、約束の聖霊が降りました。弟子たちは主イエス・キリストの復活の証人として生き始めます。ユダヤ国の各地で伝道しました。やがてサマリアにも行きました。サマリアはかつては同じ国の仲間でしたが歴史のいろいろな経緯の中で他民族と雑婚し、信仰の上でも道が異なるものとなり、ユダヤとは非常に仲が悪くなっていました。弟子たちはサマリアにも主イエス・キリストの証人として進んでいきました。
「さらに地の果てまで」と主イエスはおっしゃいます。使徒言行録の最後は使徒パウロがキリストの証人としてローマへ行くところで終わります。ここに記されている「地の果て」とはローマです。当時の世界の中心です。しかしその地の果てにまで福音は届けられた。キリストの復活の証人が聖霊に促されてローマまで行って福音を語ったのです。
私たちも同じ聖霊をいただいています。私たちもキリストの証人です。キリストの喜びの福音を証しするために、私たちも今日神に遣わされています。

2024年10月28日の聖句

あなたは私の魂を陰府に捨て置かれない。(詩編16:10) イエスは(マルタに)言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25~26) 「あなたは私を陰府に捨て置かれ...