2025年4月3日木曜日

2025年4月3日の聖句

わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。(エレミヤ2:13)
(イエスの言葉)私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出ある。(ヨハネ4:14)

二つの悪、と言われています。一つは、命の水の泉である神を捨てたこと。そしてもう一つは、その代わりに役に立たない水溜を掘ったこと。つまり、神様ではないものに神様の代わりをさせようとしたこと。それが神の民の犯した悪だ、と言っています。この「悪」というのは、私たちの命や魂を損なう、ということだと思います。役に立たない水溜に頼ることは私たち自身も周囲の人も深く損なう悪に他ならない。
神様ではないものに神様の代わりをさせる。もしかしたら、現代のそういう「神々」は、スマホの中にいるのかもしれません。現実逃れをしたり、ちょっとした憂さを晴らすための時間つぶしをしたり。そんなことをしながら、私たちはもしかしたら自分のすごく大切な何かをそんな神々に献げてしまっているのかもしれない。
しかしそれは、水を溜めることのできない水溜に過ぎません。何の役にも立たない。私たちから奪うだけで、命を養うことはない。主なる神様はそうではない。私たちを生かす生ける命の水です。キリストは私たちの魂を養い、私たちを伴ってご自分の命の水によって私たちを潤してくださいます。
今、渇いていませんか?あなたの魂はあえいでいませんか?他のどんなものに癒やしを求めても、根本的な解決にはなりません。私たちの魂を奥底から養い、救ってくださるお方がここにいてくださる。主イエス・キリストの御許へ、今帰りましょう。

2025年4月2日水曜日

2025年4月2日の聖句

「子は父を敬うものだ。しかし、私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるのか」と主は言われる。(マラキ1:6)
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。(2コリント1:3)

「子は父を敬うものだ。」十戒でも命じられていることです。更には、十戒でなくても世界中の多くの文化で言われていること、とも言えると思います。子は父を敬う。当たり前のように考えられている。それなのに神に対してはどうなのか、と言われています。「『子は父を敬うものだ。しかし、私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるのか』と主は言われる。」私たちは神を「父よ」とお呼びして祈りながら、神をまことの父として敬っているのか。神への畏れは、神を敬う信仰はどこにあるのか。神様は本当に深い嘆きをもって私たちにそう問うておられるのだと思います。
神様を敬い、神様を愛して生きていきたい、と願います。父としての神の慈しみに、私たちは神の子どもとして応えたい。神様をまっすぐに愛し、神の子として生きていきたい。
主イエスが教えてくださった主の祈りでは、「天にまします我らの父よ」と、神を「父」とお呼びし、それに続いて「御名を崇めさせたまえ」と祈ります。神様への本当に親しい呼びかけをしたときに、それに続いてすぐに神様のお名前を賛美し、礼拝することを主イエスが教えてくださいました。ここに私たちの信仰の心があるのです。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。」父なる神様をあがめ、ほめたたえるために、私たちは新しい一日を歩んでいきます。

2025年4月1日火曜日

2025年4月1日の聖句

4月の聖句:
あのお方が私たちと共にいてお話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。(ルカ24:32)

今日の聖句:
主は、虐げられている人のために裁きを行い、飢えた人にパンを与える。(詩編146:7)
蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。(2コリント9:10)

「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ることを教えてくださったお方は、私たちの肉体を支えてくださっているお方です。食べ、飲まなければ死んでしまう私たちの肉体の弱さを誰よりもよくご存じです。
主は私たちにパンを与えてくださる。このことを、深くわきまえたいと願います。ご飯を口にするのは、神様とは関係のないことのように考えてしまいがちです。しかし、私たちすべてのものが命をつなぐために神が与えてくださったものです。神の慈しみの前にへりくだって、感謝して「一食」を頂きたい。特に、今のように少しずつ食べ物を手に入れることが大変な時代になってくると、私たちはそのことが深く骨身に染みるのではないでしょうか。
神は、特に虐げられている人や飢えた人のために、深く配慮し、養ってくださるお方です。神様の慈しみの手の長く、力強いことを私たちはよく知って、食において深くへりくだる者として今日の日を生きていきたいと願います。

2025年3月31日月曜日

2025年3月31日の聖句

主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみ生きる人があなたをたたえますように。(詩編145:10)
詩と賛歌と霊的な歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。(コロサイ3:16)

「造られたものがすべて」と言っています。何気なく読み飛ばしてしまいそうな小さな言葉です。しかし、とても重い言葉だと思います。「すべて」というのですから、私たちの思うところを超えていることになります。私たちの願いや私たちの意地や、私たちの考えを超えたところの話です。神がお造りになったもののすべてが神に感謝しますように、というのです。
私は、自分の了見は本当に狭くて小さいと思います。身に心に、その小ささから痛みを覚えます。しかし神さまの慈しみは私の小ささなんて吹き飛ばしてしまうほど大きく、広く、深いのです。主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみ生きる人があなたをたたえますように!
キリストの恵みが広く、長く、高く、深いから、私たちの賛美もまた広がります。大きくして頂けます。主に献げる感謝の歌を、主ご自身が高く上げてくださいます。私たちはどんなときにもキリストを見上げ、キリストに向かって、心から賛美の歌を献げる。キリストへの愛を込めて、キリストに献げるために。そうやってキリストに向かうとき、私たちは一つになるのです。

2025年3月30日日曜日

2025年3月30日の聖句

今週の聖句:
その麦が、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)

今日の聖句:
この方こそ、私たちの神、主。
その裁きは全地にわたる。(詩編105:7)
義のために迫害される人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。(マタイ5:10)

「義のために」と主イエスはおっしゃいました。「義」という字は「正義の義」ですが、現代のキリスト者からあまり評価を受けていない言葉の一つであるように思います。正義や義を語る者の偽善生というか、独善的な匂いがしてしまう、ということがあるのではないでしょうか。しかしそれは私たちの持っている「義」のイメージから出発するから間違ってしまっている、ということであると思います。
聖書の言う「義」は、私たちを生かす神の慈しみです。私たちがそれに応えて、神と人とに責任的に生き、弱い他者への慈しみを忘れず、共同体を形成する生、それを聖書は「義」と呼びます。
「義のために迫害される人々は、幸いである。」主イエスはそうおっしゃいます。私たちが神を愛し、隣人を愛し、慈しみに生きる。教会を形成し、今日私たちが出会う人々を愛する。そのために迫害され、身に覚えのない悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いだ、と主はおっしゃいます。キリストご自身が生きた道だからです。「天の国はその人たちのものである!」神が私たちを喜んでくださる、という約束です。
キリストのものとして、新しい一週間に出て行きましょう。

2025年3月29日土曜日

2025年3月29日の聖句

主はその聖なる神殿におられる。
全地よ、主の前に沈黙せよ。(ハバクク2:20)
(イエスは)人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての民の、祈りの家と呼ばれる。』」(マルコ11:17)

今日の主イエスのお言葉は、いわゆる「宮清め」と呼ばれる事件の時の言葉です。主イエスがエルサレムの神殿の境内に入ると、たくさんの人がそこで売り買いをしていた。主イエスがその人たちを追い出しておっしゃった言葉が、今朝の御言葉です。
「私の家は、すべての民の、祈りの家と呼ばれる。」それなのにそうではなくなってしまっている。何が問題だったのか。細かな説明をここですることはできません。ここでは神殿で献げるための鳩が売られたり、献金するための特別な通貨への両替が行われていました。つまり、礼拝のための便利を整えるための商売でした。礼拝を人間の都合で変質させている。しかも、この場所は、恐らく異邦人が礼拝をするための場所でもあった。そこで信仰を養うべき人がいることを無視して、自分たちの便利を追求する商売が幅をきかせていた。これでは「祈りの家」でなくなってしまっている。
私たちの献げる祈りを、神は聖なるものと見てくださっています。神の御前での祈りだからです。私たち自身の信仰が聖だからではなく、キリストがそのようなものとしてくださる。だから、私たちは礼拝や祈りを自分の便利や都合のために変質させてはならないのです。
「主はその聖なる神殿におられる。」祈るとき、私たちはそのお方の御前にいます。神の前で、私たちは聖なる祈りの奉仕に打ち込むことが許されているのです。

2025年3月28日金曜日

2025年3月28日の聖句

翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。(イザヤ31:5)
(イエスの弟子たちへの言葉)イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。(マタイ10:6~7)

私たちが生きている場所は、キリストに遣わされた場所です。
礼拝の最後は「派遣の言葉」です。私たちはキリストに遣わされて、今生きている場所に送り出されています。そのために、キリストはおっしゃいます。「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」失われた、ということは本来は神のものである、ということです。神のものとして生きるべき神の羊が今失われてしまっている。神のものとして取り戻してほしい、と主イエスは私たちに命じておられます。主イエスが譬えでお語りになった、あの羊飼いのように生きてほしい、とキリストが私たちにおっしゃっている。
そこで語るべき言葉をキリストが私たちに授けてくださいました。「天の国は近づいた。」神様の御支配はもうここまで来ている。この世界は、罪や死、悪の力が支配しているのではない。神が治めておられる。そのことを宣言する言葉こそ、キリストが私たちに託してくださった福音です。私たちはキリストに支配された者として、キリストの御心に生きる。そのことが私たちの伝道です。
必ず、神は私たちを今日も守ってくださいます。母鳥が翼を広げて雛を守るように、主が私たちを守ってくださっている。主を信じて、今日の日を生きていきましょう。

2025年4月3日の聖句

わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。(エレミヤ2:13) (イエスの言葉)私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出...