2025年3月28日金曜日

2025年3月28日の聖句

翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。(イザヤ31:5)
(イエスの弟子たちへの言葉)イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。(マタイ10:6~7)

私たちが生きている場所は、キリストに遣わされた場所です。
礼拝の最後は「派遣の言葉」です。私たちはキリストに遣わされて、今生きている場所に送り出されています。そのために、キリストはおっしゃいます。「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」失われた、ということは本来は神のものである、ということです。神のものとして生きるべき神の羊が今失われてしまっている。神のものとして取り戻してほしい、と主イエスは私たちに命じておられます。主イエスが譬えでお語りになった、あの羊飼いのように生きてほしい、とキリストが私たちにおっしゃっている。
そこで語るべき言葉をキリストが私たちに授けてくださいました。「天の国は近づいた。」神様の御支配はもうここまで来ている。この世界は、罪や死、悪の力が支配しているのではない。神が治めておられる。そのことを宣言する言葉こそ、キリストが私たちに託してくださった福音です。私たちはキリストに支配された者として、キリストの御心に生きる。そのことが私たちの伝道です。
必ず、神は私たちを今日も守ってくださいます。母鳥が翼を広げて雛を守るように、主が私たちを守ってくださっている。主を信じて、今日の日を生きていきましょう。

2025年3月27日木曜日

2025年3月27日の聖句

集会の中で神をたたえよ。(詩編68:27)
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。(使徒2:46~47)

今日の新約に出て来る「宮」というのは、神殿のことです。最初の弟子たちはペンテコステの出来事の後、毎日宮に集まっていました。共に祈るためでしょう。「家々」というのも出てきます。当時はまだ教会堂という専用の建物はありませんでしたから、キリスト者の仲間の誰かの家に集まって礼拝していたのでしょう。しかも「家々」と複数形になっているので、そういう家の集会がたくさんあったのでしょう。いろいろな場所で神を賛美し、祈り、礼拝する営みが始まっていた。
しかし場所はいくつあっても、集まってしたこと一つです。彼らは「パンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し」。パンを裂いた。明らかに聖餐のことです。主イエスの復活、そして昇天。その後すぐに教会は聖餐を始めていました。あの最後の晩餐からまだほんの数ヶ月のことです。主イエスが私たちのためにご自分の肉を引き裂いてくださったこと、血を流してくださったことを思い起こす営み。聖餐。これによって私たちは神を礼拝します。十字架にかけられたキリストを仰ぐことこそが、キリスト教会の歴史の最初からの礼拝の営みでした。
そして、彼らは食事を共にしていました。主イエスは、ザアカイや徴税人、罪人たちと喜んで食事をともになさいました。共に食事を頂くことは、共に生きることです。そういう営みがキリスト教会の最初から、たくさんの家々で織りなされていた。そうやって共に信じ、共に神を礼拝し、共に生きるキリスト教会は、「民全体から好意を持たれていた」のです。神様の民としての新しい歩みがここに始まったのです。

2025年3月23日日曜日

2025年3月23日の聖句

今週の聖句:
鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。(ルカ9:62)

今日の聖句:
朝明けにはあなたの恵みを喜び歌います。私の苦しみの日に、あなたが私の砦、また、私の逃れ場であられたからです。(詩編59:17)
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。(使徒26:22)

朝が明けるとき、昇り行く太陽を見ながら神の恵みを喜びたたえる。なんて素晴らしいことでしょう。ヨーロッパで古い礼拝堂は東向きに建築されているものが多いそうです。東、すなわち太陽が昇る方角です。キリストは太陽が昇るように墓から出て来られた。キリストの復活の命を祝って、東向きに礼拝堂を建築する習慣があるのだそうです。日本では土地の問題があるのでなかなかそうできませんが、精神においては同じ。私たちは墓から復活させられたキリストを礼拝している。キリストを復活させた神の恵みをたたえている。
私たちの苦しみの日に、神ご自身が私たちの砦になってくださり、逃れ場になってくださいます。復活のキリストが私たちを守ってくださいます。私たちはその事実を信じ、キリストをたたえ、キリストの御前に膝をかがめて礼拝しているのです。
このキリストにある神の助けをいただいて、私たちはしっかり立つことができます。神様が私たちの足を確かなものにしてくださいます。主イエス・キリストの恵みと祝福が今日もあなたにありますように。

2025年3月22日土曜日

2025年3月22日の聖句

そしてすべての人の上にわが霊を注ぐときが来る。(ヨエル3:1)
神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがた目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。(使徒2:33)

神様は、ご自身の霊である聖霊を「すべての人に注ぐ」と約束なさいました。この約束は主イエスが復活され、天に上げられ、その後実現しました。神様はすべての人に、即ち「この私にも」聖霊を注いでくださっている。
ハイデルベルク信仰問答にこのような告白の言葉があります。「聖霊は私にもまた与えられ、まことの信仰によって、キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせ、私を慰め、永遠までも、私と共にいてくださるのであります。」
聖霊は私にもまた与えられている。聖霊は、何か特に霊的な人とか、立派な信仰者とか、見るからに敬虔な人、特殊な力のある人だけの話ではありません。聖霊は、この私と永遠までも共にいてくださる神さまのことです。聖霊なる神様は私とも共にいてくださる、今も、そして永遠に。
聖霊はこの私にも注がれている。聖霊が働いて、キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせてくださいます。つまり、キリストの十字架と復活の恵みをこの私のための恵みとして、私にとってもまた生きたものとしてくださっている。聖霊がそのために働いてくださっています。
約束の聖霊を、あなたもまた神からいただいています。今日も聖霊が共にいてくださいます。そのことを信じて今日という日に出発していきましょう。

2025年3月21日金曜日

2025年3月21日の聖句

主は、へりくだる人に恵みを与える。(箴言3:34)
また、使徒たちの間に、自分たちのうちで誰がいちばん偉いだろうか、という言い争いも起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の王たちはその民を支配し、民の上に権力を振るう者が恩人と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(ルカ22:24~26)

使徒たちは、自分たちのうちで誰がいちばん偉いかと言い争いをしました。「偉い」と翻訳されている言葉は「大きい」とも訳すことのできる言葉です。自分たちの中でいちばん大きいのは誰か。人が集まると、心の中で順位付けや序列付けが沸き起こります。年齢や経験、暮らしぶりや経歴など、いろいろな尺度があります。その中で私たちは優越感を覚えたり劣等感を覚えたりする。あの人と自分との「大きさ」を比較して、自分の大きさを測ろうとします。
私たちはとても相対的な存在です。ほかの人と比較しないと自分の大きさが分からないところがある。しかし今日の御言葉から気付かされることは、そういう私たちの心の中で起こる比較はあまり当てにならないということです。使徒たちは自分たちの大きさで言い争いをしました。自分こそがいちばん偉いと全員が思っていたということでしょう。私たちの尺度はとてもいい加減です。
ところが主イエスは私たちのそういう価値基準を全くひっくり返してしまわれます。いちばん若い者のようにへりくだり、仕える者のように他者に尽くせ、とおっしゃる。そこではもう比較は役に立ちません。他人の大きさで自分を測ること、あるいはその逆に自分と比較して他人の価値を決めることをやめてしまう。ただキリストの前でだけ生きる。神の子キリストの前でこそ、私たちは自分の大きさに気付くのではないでしょうか。このようなからし種のような者をキリストが目に留め、愛してくださった。その事実を畏れ、感謝し、主の御前にへりくだる。そこに私たちの生きる道があるのです。

2025年3月20日木曜日

2025年3月20日の聖句

私があなたを呼び求めると
あなたは聞き届けてくださり
私の魂に大きな力を与えてくださる。(詩編138:3)
(イエスの言葉)誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。(ルカ11:10)

主イエスさまは、私たちが求めること、探すこと、叩くことを喜んでくださいます。遠慮したり、半信半疑になったりすることをとても悲しまれます。
ドイツの小さな村での出来事です。ある婦人の夫が予期せぬ死に見舞われました。婦人はとても絶望しました。彼女が所属している教会の牧師が尋ねてくると、こんな酷い目に遭わせる神様に祈ることができない、と訴えました。牧師は彼女に同情を示し、そのまま帰って行きました。
その後ハンス・ウルフ・フォン・バルタザールというカトリックの司祭のところに婦人が行き、牧師に言ったのと同じように訴えた。するとこの司祭は彼女を咎め、そのようなときにこそ神はあなたに祈りを求めておられるではないかと言って、彼女と一緒に主の祈りを祈りました。しばらく経って彼女は立ち直りました。そして、カトリック教会に転籍してしまいました。
この話はルードルフ・ボーレンというスイスの牧師が紹介してくださいました。ボーレン先生はこの話の最後におっしゃいまた。「不信仰には、私たちがそれに付き合うほどの価値はないのです。」
神はわたしたちに祈りを求めておられます。訴え、探し、叩くことを。そのようにして神ご自身を求めるとき、私たちの魂は大きな力を頂くのです。

2025年3月19日水曜日

2025年3月19日の聖句

ヨブは主に答えた。
私は取るに足りない者。
何を言い返せましょうか。
私は自分の口に手を置きます。(ヨブ40:3~4)
(パウロの手紙)私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。(1コリント13:12)

ヨブは何の理由もなく大変な苦しみに遭いました。財産を失い、子どもたちを喪い、自身の健康も激しく損なわれました。ヨブからしたら神に呪われているとしか思えない状況に突然たたき込まれました。ヨブには神様が分かりませんでした。どうして自分がこのような目に遭わなければならないのか、全く分かりませんでした。
使徒パウロは言っています。私は、今は一部分しか知らない。そうです。私たちが今知っているのはごく僅かなところでしかありません。私たちには神様の御心が分からないし、神様が何を望んでおられるのか、自分がどうしてこのような目に遭わなければならないのか、私たちには分からないことがたくさんあります。
ヨブは、何一つ分からない中でひたすら神様に訴え、神を疑問視し、神に問い続けました。「信じる」というのはそういうことではないでしょうか。ときどきヨブは傲慢だと言う人がいますが、私はそれは違うと思います。分からなければ問うのが当然だし、納得できなければ神様につかみかかることこそが「信じる」ということです。
しかし、ヨブは神がご自身を現してくださったときに神の御前にひれ伏しました。「私は取るに足りない者」と告白しました。自分が一部分しか知らない者だということを痛感したからです。しかし、それは救いです。今は一部しか知らないのであれば、キリストの訪れの日にははっきりと神を知ることが出来るようになる。キリストと、顔と顔とを合わせてお目にかかることのできる日が必ず来る。「今は一部分しか知らない。」それは私たちにとっては救いの約束でもあるのです。

2025年3月28日の聖句

翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。(イザヤ31:5) (イエスの弟子たちへの言葉)イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。(マタイ10:6~7) 私たちが生きて...