2025年12月4日木曜日

2025年12月4日の聖句

律法を知らない子どもたちが、またこれを聞きかつ学び、あなたがたの神である主をいつでも畏れるようになるべきです。(申命記31:13)
父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。(エフェソ6:4)

私にとっては非常に耳の痛い御言葉です。「父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。」最初からいきなり躓いてしまいます。「子どもを怒らせず・・・」。言葉もありません。
子育ては本当に難しいです。最初の子どものときには、こちらにも何の経験もないし、初めて親になったばかりで、どうすることもできない。二人目の子どものときは、上の子もいて何も考えることもできません。三人目の子どもは上に二人もいるし、気力も体力も保たないし、どうすることもできない。きっと、何人目であってもいくらでも言い訳は生まれてくるはずです。
親はちっぽけな存在です。「理想の子育て」からはほど遠いのが現実です。せめて子どもを一人の人格として受け入れ、尊重し、信頼したい。ところがそれすらも難しく、いらぬことばかり言ったりしたりしてしまいます。
自分を指針にしたり、世間のはやりを頼りにしていても、きっとダメなのでしょう。聖書はちゃんと確かな指針を示しています。「律法を知らない子どもたちが、またこれを聞きかつ学び、あなたがたの神である主をいつでも畏れるようになるべきです。」聖書の御言葉を指針とし、神である主を畏れる者として生きられるように。主を愛し、主に仕え、主と共に生きられるように。
ところがまた難しいのは、私には神さまを言い訳にして自分の思いを押しつけることさえできてしまう、ということです。信仰という名前のすてきなかぶり物をかぶれてしまうのです、子どもに対しても。だからこそ、日ごとにそんな自分の罪を悔い改め、へりくだるものでありたい。自分がまず主を畏れて。キリストがこの子と自分の間にも立っていてくださることを願いつつ、再び子どもと出会いたいです。

2025年12月3日水曜日

2025年12月3日の聖句

(モーセの言葉)「主の民すべてが預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に与えてくださればよいと望んでいる。」(民数記11:29)
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。(使徒1:8)

モーセと共にエジプトを脱出した神の民。迫り来るエジプトの軍隊から逃れるために神が海の中に道を通してくださり、食べ物がなく飢え死にすると嘆けば神が天からマナというパンを与えてくださいました。神は飲み水も与え、彼らが生きるために必要なものを一つひとつ備えてくださった。ところが、民の不平は留まりません。今度はマナだけではなく野菜や魚も食べたいと不満が噴出しました。
モーセは神に訴えます。「私一人ではこの民すべてを負うことはできません。私は重すぎます。」これに対し、神は二つの答を与えてくださいました。一つは民にすさまじい数のうずらを来たらせ、肉を食べさせた。そしてもう一つは、民の長老の中の70人にモーセの上にある霊の一部を分け与えられた。すると、長老たちはたちまち預言者のようになった。それを見たモーセの従者ヨシュアは言います。「わが主君、モーセよ。彼らを止めさせてください。」ヨシュアは嫉妬しました。このままでは長老たちはモーセなど必要ないと勘違いしてしまうかもしれない。ただモーセからだけ神の言葉を聞けば良い。ヨシュアはそう考えたのでしょう。ところがモーセは若きヨシュアを諭しました。「あなたは私のために妬みを起こしているのか。私はむしろ、主の民すべてが預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に与えてくださればよいと望んでいる。」
ヨシュアの気持ちは分かります。しかし、神さまのことを独占したいというのは恐るべき欲望。罪深い思いです。モーセはそれに囚われず、誰もが神の言葉を聞き、語ることができることを望みました。
神さまは私たちすべてのものにご自分の聖霊を与えてくださっています。私たちは誰もが祈ることができるし、御言葉を聞きます。神は私たち一人ひとりに、聖書を通して語りかけてくださっています。この神の霊を謙遜な思いでいただき、神の御前にあって隣人を立て上げる言葉を語るものでありたい、と願います。神は出エジプトの民のように私たちの貪欲から出た思いさえも見捨てることなく、私たちをご自分の憐れみの中で生かしてくださいます。そうであるからこそ、私たちは聖書を通して語る神さまの御言葉にしっかりと耳を傾け、キリストを仰いで生きていきたいのです。私たち一人ひとりに語りかけるキリストの言葉に耳を傾け、そのために互いを励まし合いましょう。

2025年12月2日火曜日

2025年12月2日の聖句

私を立ち帰らせてください。私は立ち帰りたいのです。あなたこそ私の神、主だからです。(エレミヤ31:8)
パウロは言った。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。」(使徒14:15)

改革者マルティン・ルターは言いました。「悔い改めよ」とお教えになった主イエスは、私たちの全生涯が悔い改めであることをお望みになったのだ、と。この悔い改めは、人生のいつかどこかで一回劇的な悔い改め体験をする、というような意味ではありません。日ごとに神の御前にへりくだり、毎日悔い改めて生きる、ということです。主は、私たちの全生涯が日ごとの悔い改めであることをお望みになったのです。
「私を立ち帰らせてください。私は立ち帰りたいのです。あなたこそ私の神、主だからです。」
あなたこそ私の神、主だからです。そのように言っています。あなたがほかの誰でもなく、まさにあなた様でいらっしゃるから。だから私はあなたの御許に立ち帰りたい。あなたの慈しみに、あなたの憐れみに、私の救いはある。あなただけに私の帰るべき場所がある。主よ、私をあなたに立ち帰らせてください。私たちの信仰の大先輩であるこの預言者は、そう祈っています。
私たちの願望や貪欲が生み出す偶像を捨てましょう。私たちをいつの間にか支配するたくさんの偶像に別れを告げましょう。そして、今日新たな思いで悔い改め、神の御もとに立ち返りましょう。

2025年12月1日月曜日

2025年12月1日の聖句

12月の聖句:
(神の言葉)しかし、わが名を畏れるあなたがたには義の太陽が昇る。その翼には癒やしがある。(マラキ3:20)

今日の聖句:
あなたの光とまことを遣わしてください。それらは私を導き、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう。(詩編43:3)
シメオンは言った。「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。」(ルカ2:29~32)

シメオンは生まれたばかりの主イエスと神殿で出会いました。そして言ったのです。「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」シメオンは、このお方と出会うことこそが私の人生の目的だった、と知ったのではないでしょうか。このお方に出会い、今こそ私は安らかに去ることができる。死ぬ準備ができた。主との出会いはそういう出来事です。
このシメオンの言葉は讃美歌になりました。教会の一つの伝統では、聖餐のときに歌う讃美歌として覚えられてきました。主のお体と血潮に与る私たちは、今、安らかに去ることができます。私たちは神様の御前でそう告白し、平安の中にいます。私たちを照らしてくださる神さまの平和の光の中にいる。私たちはキリストのもの。神さまの御許に生きる者。キリストの光の中、昇る義の太陽に照らされて、私たちの新しい一日が始まる。私たちはそう信じています。

2025年11月30日日曜日

2025年11月30日の聖句

今週の聖句:
見よ、あなたの王があなたに到来する。義なる方にして救う方が。(ゼカリヤ9:9b)

今日の聖句:
もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからであるーー主の仰せ。(エレミヤ31:34)
しかし、祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、また、境内で子どもたちが叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あながたはまだ読んだことがないのか。」(マタイ21:15~16)

祭司長や律法学者たちは怒っています。この怒りはやがて主イエスを十字架につけるところにまで至ってしまう。その怒りに任せて「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか」と主に詰問します。子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って主イエスを喜んでいたからです。
しかし大人の怒りも、偉いおじさんの叱責も、子どもたちの口を閉ざしてしまうことはできませんでした。主イエスさまへの賛美はもはや押しとどめることができない。主イエス・キリストの御業と御言葉がこの世界で証しされているからです。福音が宣べ伝えられ、神の国の到来が宣言されているからです。
月に二度ほど、厚木の保育園の礼拝のお手伝いに伺っています。子どもたちが讃美歌を歌います。お祈りをします。イエス様のお話を喜んで聞いています。ここでも「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた」という神さまの御業が起こっています。
私たちも、幼子の声に耳を傾けましょう。小さな子どもが賛美するイエス様のすばらしさを、乳飲み子が力の限りに求めている愛の御神を、私たちも賛美し、求め、この方に祈りましょう。
今日から待降節です。この新しい日々に祝福がありますように。

2025年11月29日の聖句

あなたの庭で過ごす一日は、私の選んだ千日にもまさる。(詩編84:11)
イエスは両親に言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)

私たちの願いは、主の家に住み、主の庭に憩うことです。私たちはその日を目指して、この世の旅路を続けています。
今日の新約の御言葉は、主イエスさまの12歳の時の出来事です。今の日本の感覚で考えると12歳はまだ子どもですが、当時のユダヤでは、昔の日本でいう元服の年齢だったようです。何よりも神を礼拝する者として一人前になる。ですので、両親は12歳になった息子を連れて、特別な思いを持って過越祭に上ったのだと思います。ところがその帰り道で両親は主イエスを見失ってしまった。三日間も探し、ようやく神殿にいるところを見つけてマリアはたしなめました。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」私も人の親としてマリアの気持ちはよく分かります。ところが主イエスは全く違うことをおっしゃいました。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」
マリアが「私もお父さんも」といったのに対し、主イエスは「自分の父の家にいる」とお答えになった。主イエスは神を父と呼んでおられる。そして、マリアとヨセフはこのとき、主イエスが神の子でいらっしゃることを見失っていたのでしょう。自分の息子としか見られなくなっていた。そのズレが指摘される出来事でした。
神の子でいらっしゃる、という主イエスの事実。これを主イエスはただご自分だけの者とはなさいませんでした。私たちをも神の子として迎えてくださいます。私たちも神を父と呼んで神の家に帰り、神の庭で憩う幸いに招いてくださっている。私たちの人間的な情を超えたお方が、私たちのための神の子として私たちのところに来てくださったのです。

2025年11月28日金曜日

2025年11月28日の聖句

私の造る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように、あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続くーー主の仰せ。(イザヤ66:22)
ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1:49)

真の王でいらっしゃるお方!私たちはそういうお方でいらっしゃる神の子イエスを信じ、崇めています。私たちは主イエスを「キリスト」とお呼びしていますが、この「キリスト」の一番大事な意味は「王」です。イエスこそ、私たちの王。私たちはそう信じています。
23日土曜日は、教会の暦では「王であるキリスト」の主日でした。待降節の始まる一週間前の日曜日をそのように読んでいます。「イエスこそ王」という私たちの信仰を新たにし、イエスの御支配を信じる信仰を覚える主日です。
「私の造る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように、あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続くーー主の仰せ。」
この御言葉は主イエス・キリストが成就してくださいました。イエスのお名前こそ、いつまでも続きます。その御支配が変わることはない。ところが、私たちの周りには王様のような顔をしたものがたくさんあります。権力やお金を持っている人もそうかもしれません。しかしそれだけではないと思います。社会システムも私たちを支配する。「常識」と私たちが思い込んでいるものも私たちを支配する。人の目や評判を気にする私たちの心は、もしかしたらこの世の王をどこかに祭りあげているかもしれない。そのようなことを考えていくと、私たちを支配する王的なものはそこかしこにあるのではないか。
私たちも、ナタナエルと一緒に主イエスに向かって告白しましょう。「あなたは神の子、あなたこそ真の王」と。私たちの今日一日が、王であるキリストに「御国を来たらせたまえ」と祈るものでありますように。

2025年12月4日の聖句

律法を知らない子どもたちが、またこれを聞きかつ学び、あなたがたの神である主をいつでも畏れるようになるべきです。(申命記31:13) 父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。(エフェソ6:4) 私にとっては非常に耳の痛い御言葉です。「父親たち、子どもを怒らせ...