2025年9月3日水曜日

2025年9月3日の聖句

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。(エゼキエル36:26)
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。(マタイ5:44~45)

主なる神さまが約束してくださいました。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。」神が私たちに新しい心を与えてくださる。私たちの内に新しい霊を授けてくださる。神さまが私たちを新しくしてくださいます。
「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と主イエスがおっしゃいました。私たちが敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるとしたら、それは神ご自身の霊が働いてくださっているからという事実以外に理由がないのではないでしょうか。私たちは神ご自身が私の内で働いてくださっているからこそ、キリストに倣って生きることができるのではないでしょうか。
しかし、自分の現実を考えると、敵は憎いし、迫害する者には地獄に落ちてほしいと思ってしまっています。そうすると自分は本当に神さまを信じていると言えるのか、そう言える資格があるのか、と考えざるを得ない。ただ、もう少し考えてみると、そういう自分の心の中で起きているのは、単に相手が憎いとか呪ってやろうとか、そういう思い一色というわけでもありません。憎たらしい思いと、どうやったら愛せるのかという思いもあって、その葛藤、二つの心のはざまでどうしたら良いのか分からないということなのかもしれません。
私は、そのせめぎ合いが既に聖霊のお働きの証拠なのではないかと思います。私たちは本当にどうしようもない罪人でしかないけれど、そんな私の内にも神ははたいてくださっていて、愛の願いを起こしてくださっている。それもまた事実です。そういう神の出来事が私の内にも働き始めていることを信じ、受け入れて、なお「愛をもって生きさせてください」と神に願って歩みたいのです。

2025年9月2日火曜日

2025年9月2日の聖句

(ダビデの言葉)主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。(サムエル下7:18)
リディアと彼女の家族の者も洗礼を受けたが、その時、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言って、無理やり招き入れた。(使徒16:15)

私たちは一体何者でしょう。私の家をたどったとしても、一体それで何者だと言いうるのでしょうか。人の前にはもちろんのこと、まして神様に対して私たちは一体何者だと言いうるのでしょうか。しかも、そんな私であるにも拘わらず「あなたはこれまで私を導かれた」。神が何者でもない私を導き、これまでの歩みを支えてくださった。
今日の新約聖書は、使徒パウロたちがフィリピを訪れたときに出会ったリディアという女性の言葉を伝えています。リディアは紫布を扱う商人でした。紫布は高価ですから、リディアも裕福な人であったと思います。そんなリディアもその家族も主イエスを信じて洗礼を受けました。リディアはパウロたちに「私が主を信じる者だとお思いでしたら・・・」と言います。彼女は、自分の家柄を見てくれとか、裕福な私であることなどについては何も言いません。神様の御前にも、主にあって出会ったパウロに対しても、そのようなことではなく、ただ「主を信じる者」ということだけが意味を持ったのです。
私たちはただキリストを信じ、キリストのものとして生かされている。それだけの存在です。主イエス・キリストのものとされ、主を信じる者として私たちは互いに出会い、神の御前に生かされているのです。

2025年9月1日月曜日

2025年9月1日の聖句

9月の聖句:
神は我らの逃れ場、我らの力。(詩編46:2)

今日の聖句:
今日までしてきたように、あなたがたの神、主にのみ付き従わなければならない。(ヨシュア23:8)
ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブライ10:25)

ヘブライ人への手紙が誰の手で書かれ、誰に宛てられたのかは定かではありません。もともとは何通かの別の手紙であったものがつなげられて今日のかたちになっている、と考えられているようです。しかも、それも元は教会で実際に語られた説教から生まれたのではないか、という説があるようです。
手紙の受け手が誰なのか確たることは分かりませんが、迫害下の教会であったことは内容から想像されます。教会で集まって礼拝を献げるということ自体に大きな困難を覚えていた教会で語られた説教。それがヘブライ人への手紙ではないか、と推測されている。
そうすると、今日の箇所の意味もよく分かります。「ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。」教会の集会に行くことを止めてしまう仲間たちが実際にたくさんいたのでしょう。礼拝や祈りとは異なる習慣が教会の中にはびこってしまった。しかし「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と呼びかけます。「かの日」というのは、キリストが再び来られる日です。主イエスをお迎えする日を待ち望んで、共に祈って生きていこう、と励ましているのです。
私たちは、私たちの神である主にのみ付き従いましょう。他の何者でもなく、ただ主イエスさまに付き従い、主の憐れみの中を生きていきましょう。ここにこそ救いがあるし、慰めがあります。主イエス・キリストの恵みと祝福が今日もあなたにありますように。

2025年8月31日の聖句

今週の聖句:
神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5b)

今日の聖句:
すべて主に寄り頼むものはさいわいである。(詩編2:12)
キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。(エフェソ3:12)

「キリストの真実により」です。主イエス・キリストが真実な方でいらっしゃるから、私たちは神に近づくことができる。キリストが私たちを神に近づけてくださったからです。キリストの真実は、私たちを神のものとするということにおいてその力を発揮なさいました。主イエス・キリストの真実が私たちを救ってくださいます。
キリストの真実によって、私たちは「確信をもって、堂々と神に近づくことができます」という、この「堂々と」というのも本当にすばらしい言葉です。コソコソではありません。神さまに怒られないかビクビクしながらでもない。私たちは大胆にも堂々と神に近づくことができる。神の御前で神を礼拝し、祈り、大胆に信じ、堂々と生きることが許されている。ですから、キリスト者とは、自分らしく生きることのできる人、と言っても良いと思います。
主に寄り頼んで生きていきましょう。自分には神に頼る必要なんてない、自分の力で生きることができる。そのように言う人もたくさんいます。自立して生きるということ自体はとても大切なことでしょう。しかし、本当に、何にも寄り頼まずに生きられる人がいるのでしょうか。自分だけの力で、堂々とした確信を死ぬまで持ち続けることができるのでしょうか。キリストの真実に頼るというのは弱い者であるかのようで、実は自分の弱さに真摯に向き合い、自分の力を超えたものに対する誠実な畏れをもって生きる強いあり方ではないでしょうか。
キリストの真実があなたを生かしています。今、もう既に。あなたが生きているのはあなたの内に生きるキリストの真実によるものなのです。

2025年8月30日土曜日

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16)
時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8)

熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。本人のことだけではなく、ある人は家族の病のための悩みを抱いている。若い人は進路を求めているでしょう。いろいろなことのために、私たちは祈りを必要としています。教会はお互いのために祈る者たちの共同体です。私たちの神が私たちに最もよいことをしてくださると信じて、私たちは神に祈ります。癒しを求め、解決を求めて。
パウロもプブリウスの父親のために祈りました。神はその祈りを聞き入れて彼を癒やしてくださいました。私たちも同じように教会生活を送っています。それは神が必ず祈りを聞いてくださる方だと信じ、信頼しているからです。「主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。」これは、私たちの祈りでもあります。
新約聖書のヤコブの手紙にこんな言葉があります。「あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」ここでのオリーブ油というのは、恐らく祈りの象徴のような意味合いだと思います。私たちはオリーブ油は塗ってはいませんが、互いのために祈る営みを続けていることには何ら変わりがない。
私たちもお互いに祈りを求めましょう。仲間に祈ってもらいましょう。そして、仲間のために祈りましょう。そのようにして神の家族として私たちは練られていくのです。

2025年8月29日金曜日

2025年8月29日の聖句

万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたが天と地をお造りになったのです。(イザヤ37:16)
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネ1:3)

天と地とそこに満ちるすべてのものは神がお造りになった。しかも、言によって。そのように、今日私たちに与えられた聖書の御言葉は証言しています。
ヨハネによる福音書第1章を読んでみると、この「言」とは、主イエス・キリストのことであると言っています。神の言そのものでいらっしゃるイエス。イエスというお方によって示された神ご自身の御心、その知恵、福音。そのような「言」において、神はこの世界をお造りになりました。
ですから造られたものである私たちは、神の言を待ち望む存在です。私たちは神の語りかけに向かうものとして造られました。主イエス・キリストによって私たちに示された福音に向かって開かれた者として、私たちは命を与えられているのです。
ですので、私たちは今日も御言葉に耳を傾けます。神の語りかけこそが私たちの命そのものであると信じ、神に向かって生きるために、私たちは祈ります。神ご自身の霊によって私を照らしてくださって、神の言葉を聞き、神に従って生きる者にならせてください、と私たちは祈る。それが私たちの自然な生き方であるはずです。
「あなただけが地上のすべての王国の神であり」と言っています。この世界のすべてを、神はご自身の言によって創造なさいました。世界が神の語りかけを待っている。この世界のすべてがキリストの福音を待っている。神に向かう世界の憧れが、渇きが、あなたにも見えるでしょうか?

2025年8月28日木曜日

2025年8月28日の聖句

あなたは主の手の中で誉れある冠となり、神の手のひらの上で王冠となる。(イザヤ62:3)
(イエスの言葉)あなたがた招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、「友よ、もっと上席にお進みください」と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。(ルカ14:10)

主イエスのこのお言葉ですが、もしも、後で上席を勧められることを期待してとりあえず末席に座っているのだとしたら、何の意味もないのだと思います。主イエスは徹底して謙ることを求めておられる。人からの誉れを受けること、自分が重んじられるのを期待することを止めろ、とおっしゃっているのだと思います。人からの誉れを期待せず、ただ神の誉れとなることだけを求めよ、とおっしゃっているのではないでしょうか。
今日の旧約の御言葉には「あなたは主の手の中で誉れある冠となり、神の手のひらの上で王冠となる」と書かれています。なんと美しく、素晴らしい御言葉でしょうか。神が御手の中で私たちをご自身の誉れとしてくださる、と言っています。あまりにもったいない御言葉です。主は、神がくださるこの栄誉だけを求めるように、と教えてくださいました。
そうは言っても、神さまは見えませんし、人が褒めてくれる言葉や自分を重んじてくれる態度は気持ちの良いものです。やっぱりそれを求めてしまいます。そんな私たちの前に、ご自身が底の底まで徹底して謙り尽くされたお方がおられます。飼い葉桶に生まれ、十字架にまでかけられた神の子がおられます。キリストは、ご自分の歩まれた道へと私たちを招いておられるのです。

2025年9月3日の聖句

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。(エゼキエル36:26) 敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。(マタイ5:44~45) 主なる神さまが約束してくださいました。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがた...