2025年3月23日日曜日

2025年3月23日の聖句

今週の聖句:
鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。(ルカ9:62)

今日の聖句:
朝明けにはあなたの恵みを喜び歌います。私の苦しみの日に、あなたが私の砦、また、私の逃れ場であられたからです。(詩編59:17)
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。(使徒26:22)

朝が明けるとき、昇り行く太陽を見ながら神の恵みを喜びたたえる。なんて素晴らしいことでしょう。ヨーロッパで古い礼拝堂は東向きに建築されているものが多いそうです。東、すなわち太陽が昇る方角です。キリストは太陽が昇るように墓から出て来られた。キリストの復活の命を祝って、東向きに礼拝堂を建築する習慣があるのだそうです。日本では土地の問題があるのでなかなかそうできませんが、精神においては同じ。私たちは墓から復活させられたキリストを礼拝している。キリストを復活させた神の恵みをたたえている。
私たちの苦しみの日に、神ご自身が私たちの砦になってくださり、逃れ場になってくださいます。復活のキリストが私たちを守ってくださいます。私たちはその事実を信じ、キリストをたたえ、キリストの御前に膝をかがめて礼拝しているのです。
このキリストにある神の助けをいただいて、私たちはしっかり立つことができます。神様が私たちの足を確かなものにしてくださいます。主イエス・キリストの恵みと祝福が今日もあなたにありますように。

2025年3月22日土曜日

2025年3月22日の聖句

そしてすべての人の上にわが霊を注ぐときが来る。(ヨエル3:1)
神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがた目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。(使徒2:33)

神様は、ご自身の霊である聖霊を「すべての人に注ぐ」と約束なさいました。この約束は主イエスが復活され、天に上げられ、その後実現しました。神様はすべての人に、即ち「この私にも」聖霊を注いでくださっている。
ハイデルベルク信仰問答にこのような告白の言葉があります。「聖霊は私にもまた与えられ、まことの信仰によって、キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせ、私を慰め、永遠までも、私と共にいてくださるのであります。」
聖霊は私にもまた与えられている。聖霊は、何か特に霊的な人とか、立派な信仰者とか、見るからに敬虔な人、特殊な力のある人だけの話ではありません。聖霊は、この私と永遠までも共にいてくださる神さまのことです。聖霊なる神様は私とも共にいてくださる、今も、そして永遠に。
聖霊はこの私にも注がれている。聖霊が働いて、キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせてくださいます。つまり、キリストの十字架と復活の恵みをこの私のための恵みとして、私にとってもまた生きたものとしてくださっている。聖霊がそのために働いてくださっています。
約束の聖霊を、あなたもまた神からいただいています。今日も聖霊が共にいてくださいます。そのことを信じて今日という日に出発していきましょう。

2025年3月21日金曜日

2025年3月21日の聖句

主は、へりくだる人に恵みを与える。(箴言3:34)
また、使徒たちの間に、自分たちのうちで誰がいちばん偉いだろうか、という言い争いも起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の王たちはその民を支配し、民の上に権力を振るう者が恩人と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(ルカ22:24~26)

使徒たちは、自分たちのうちで誰がいちばん偉いかと言い争いをしました。「偉い」と翻訳されている言葉は「大きい」とも訳すことのできる言葉です。自分たちの中でいちばん大きいのは誰か。人が集まると、心の中で順位付けや序列付けが沸き起こります。年齢や経験、暮らしぶりや経歴など、いろいろな尺度があります。その中で私たちは優越感を覚えたり劣等感を覚えたりする。あの人と自分との「大きさ」を比較して、自分の大きさを測ろうとします。
私たちはとても相対的な存在です。ほかの人と比較しないと自分の大きさが分からないところがある。しかし今日の御言葉から気付かされることは、そういう私たちの心の中で起こる比較はあまり当てにならないということです。使徒たちは自分たちの大きさで言い争いをしました。自分こそがいちばん偉いと全員が思っていたということでしょう。私たちの尺度はとてもいい加減です。
ところが主イエスは私たちのそういう価値基準を全くひっくり返してしまわれます。いちばん若い者のようにへりくだり、仕える者のように他者に尽くせ、とおっしゃる。そこではもう比較は役に立ちません。他人の大きさで自分を測ること、あるいはその逆に自分と比較して他人の価値を決めることをやめてしまう。ただキリストの前でだけ生きる。神の子キリストの前でこそ、私たちは自分の大きさに気付くのではないでしょうか。このようなからし種のような者をキリストが目に留め、愛してくださった。その事実を畏れ、感謝し、主の御前にへりくだる。そこに私たちの生きる道があるのです。

2025年3月20日木曜日

2025年3月20日の聖句

私があなたを呼び求めると
あなたは聞き届けてくださり
私の魂に大きな力を与えてくださる。(詩編138:3)
(イエスの言葉)誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。(ルカ11:10)

主イエスさまは、私たちが求めること、探すこと、叩くことを喜んでくださいます。遠慮したり、半信半疑になったりすることをとても悲しまれます。
ドイツの小さな村での出来事です。ある婦人の夫が予期せぬ死に見舞われました。婦人はとても絶望しました。彼女が所属している教会の牧師が尋ねてくると、こんな酷い目に遭わせる神様に祈ることができない、と訴えました。牧師は彼女に同情を示し、そのまま帰って行きました。
その後ハンス・ウルフ・フォン・バルタザールというカトリックの司祭のところに婦人が行き、牧師に言ったのと同じように訴えた。するとこの司祭は彼女を咎め、そのようなときにこそ神はあなたに祈りを求めておられるではないかと言って、彼女と一緒に主の祈りを祈りました。しばらく経って彼女は立ち直りました。そして、カトリック教会に転籍してしまいました。
この話はルードルフ・ボーレンというスイスの牧師が紹介してくださいました。ボーレン先生はこの話の最後におっしゃいまた。「不信仰には、私たちがそれに付き合うほどの価値はないのです。」
神はわたしたちに祈りを求めておられます。訴え、探し、叩くことを。そのようにして神ご自身を求めるとき、私たちの魂は大きな力を頂くのです。

2025年3月19日水曜日

2025年3月19日の聖句

ヨブは主に答えた。
私は取るに足りない者。
何を言い返せましょうか。
私は自分の口に手を置きます。(ヨブ40:3~4)
(パウロの手紙)私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。(1コリント13:12)

ヨブは何の理由もなく大変な苦しみに遭いました。財産を失い、子どもたちを喪い、自身の健康も激しく損なわれました。ヨブからしたら神に呪われているとしか思えない状況に突然たたき込まれました。ヨブには神様が分かりませんでした。どうして自分がこのような目に遭わなければならないのか、全く分かりませんでした。
使徒パウロは言っています。私は、今は一部分しか知らない。そうです。私たちが今知っているのはごく僅かなところでしかありません。私たちには神様の御心が分からないし、神様が何を望んでおられるのか、自分がどうしてこのような目に遭わなければならないのか、私たちには分からないことがたくさんあります。
ヨブは、何一つ分からない中でひたすら神様に訴え、神を疑問視し、神に問い続けました。「信じる」というのはそういうことではないでしょうか。ときどきヨブは傲慢だと言う人がいますが、私はそれは違うと思います。分からなければ問うのが当然だし、納得できなければ神様につかみかかることこそが「信じる」ということです。
しかし、ヨブは神がご自身を現してくださったときに神の御前にひれ伏しました。「私は取るに足りない者」と告白しました。自分が一部分しか知らない者だということを痛感したからです。しかし、それは救いです。今は一部しか知らないのであれば、キリストの訪れの日にははっきりと神を知ることが出来るようになる。キリストと、顔と顔とを合わせてお目にかかることのできる日が必ず来る。「今は一部分しか知らない。」それは私たちにとっては救いの約束でもあるのです。

2025年3月18日の聖句

主よ、わが力、わが砦、苦難の日のわが逃げ場よ。(エレミヤ16:19)
私は自分の信じてきた方を知っており、私に委ねられたものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(2テモテ1:12)

主なる神様を「わが砦」とお呼びしています。神様は私の砦でいてくださる。言葉としてはなんとなく意味が分かりますが、私の生活の実感として「砦」があまり近いものではなく、少し意味を捉えきれないところもある言葉でもあります。
「砦」は、戦争や何かの時に基地になる場所、安全な場所、守りのための要塞のようなものでしょうか。ここでは「苦難の日のわが逃れ場」ともありますから、苦難が敵のように襲いかかってくるときに、神が私の砦になってくださって、敵の攻撃を防いで私を守ってくださる、ということでしょう。
そう考えると、戦争だけの話ではなく、どんなときにも私たちには自分を守ってくれる安全な場所が必要なのだと思います。例えどんなに強い人格の持ち主であったとしても、一生その強さを維持できる人は存在しません。誰でもやがて衰えるし、弱い日がやって来る。そんなときに私たちには安心して自分の弱さをさらけ出し、受け止めてくれる存在が必要なのではないでしょうか。自分は思ったほど大したことがないということを思い知らされる日が、私たちには必ず訪れるのです。
神はわが力。だから、私は弱くても恐れることはない。主が味方でいてくださるから。それが私たちの確信ではないでしょうか。私にはできなくても主が守ってくださる。そのことを信じ、神様にお任せする。そんな開き直りを「弱い」と罵る人もいると思います。しかし、その弱さを受け止めることこそが本当の強さなのではないでしょうか。

2025年3月17日月曜日

2025年3月17日の聖句

あなたのような神がどこにおられるだろか。
慈しみを好まれるゆえに、罪を赦し
ご自身の嗣業の残り者として留まる者たちには責任を負わせず
いつまでも怒りを持ち続けられることもないという神が。(ミカ7:18)
(マリアの言葉)(神は)慈しみを忘れず、その僕イスラエルを助けてくださいました。(ルカ1:54)

神は慈しみをお忘れになることがない。これこそ、私たちの慰めであり、私たちの救いです。神は慈しみを忘れず、私たちを憐れんでくださいます。そして、今日の旧約はとても大胆に、神がお忘れになることがある、と言います。「いつまでも怒りを持ち続けられることもない神」と書かれている。神は怒りは忘れ、慈しみはお忘れになることがない。大胆な言葉です。しかし、大胆にこれを信じる以外、ほかには私たちに救いは見つからないのではないでしょうか。
神様が覚えておられるのが、もしもご自身の慈しみではなく私たちの生き方だとしたら、私たちは一体どうして救われるでしょうか。神がご自身の慈しみに従って私たちを扱ってくださるから、ただそれだけの理由で私たちは神の愛を頂いているのです。
十字架にかけられたキリストに、私たちの目を注ぎましょう。キリストを仰ぎ、今日この日を、へりくだって歩んでいきましょう。

2025年3月16日日曜日

2025年3月16日の聖句

今週の聖句:
まだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んだことにより、神は愛を示されました。(ローマ5:8)

今日の聖句:
安らかなときには、言いました。「私はとこしえに揺らぐことなどない」と。
しかし、御顔を隠されると、私はおじけました。(詩編30:7,8)
(イエスの言葉)「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(ヨハネ16:22)

主イエスが目の前の弟子たちに「今はあなたがたも、悲しんでいる」とおっしゃいました。この「今」というのは、主イエスがまさに十字架にかけられようとしている「今」のことです。そして、ヨハネが福音書を書いて主イエスのこのお言葉を伝えようとしたときに恐らく考えていたのは、これを読んでいる私たちの「今」も同じだ、ということです。私たちも、今、主イエスのお顔をこの目で見ることはできない。試練や悲しみの中で主イエスさまに直接お目にかかって励まして頂くことができない。それで「今はあなたがたも、悲しんでいる」という主イエスのお言葉を伝えずにはいられなかったのだと思います。
主イエスは私たちに喜びを約束してくださいます。私たちは再び主イエスさまにお会いして喜ぶことになる。そして、主イエスはその約束を既に果たしてくださいました。聖霊です。聖霊なる神様が私たちと共にいてくださって、今、私たちに信仰を与え、御言葉によって養ってくださっています。
今日の詩編は、試練の中で神の御顔を見失い、怖じけた信仰者の告白が書かれています。神が御顔を隠してしまわれた。神を見失うことほどの試練は私たちにはない。しかし主イエスが聖霊を送ってくださった今、神の御顔が私たちから隠されているということはないのです。神はいつでも御言葉によって私たちに語りかけてくださっています。この喜びをあなたたちから奪う者はない、と主イエスは言ってくださいます。その証拠に、今、あなたも御言葉に耳を傾けているではありませんか!キリストの光の中、新しい一週間を歩んで参りましょう。

2025年3月14日金曜日

2025年3月14日の聖句

主はすべての地の王となられる。
その日には、主はただひとり、その名もただ一つとなる。(ゼカリヤ14:9)
同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。(ローマ10:12)

すべての地の王、その名はイエス・キリスト。主イエスさまこそ、まことの王です。主イエスは十字架の上ですべてのものの王になられました。茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せられて侮辱されたお方。「ユダヤ人の王」という罪状書きの下で十字架に磔にされた方。このお方こそ、すべての人のまことの王でいらっしゃいます。
しかし、私たちはまだこのまことの王が全地を支配しておられるのをこの目では見ていません。この方の御国が完成したのを、まだ目の当たりにはしていない。「その日には、主はただひとり、その名もただ一つとなる」という出来事を、まだ見ていない。しかし、救いの完成の日、約束の日は必ず来ます。キリストが治める神の国が完成する日は必ず来る。私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ、この地で神を信じて生きていきます。
「同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」私たちはこの御言葉を信じて、主の御名を呼び求めて、今日も神の民として生きていきます。主をお呼びして祈り、主を賛美し、主を礼拝する民の一員として、神に遣わされたところで生きていきます、神の国の福音を信じて。
主イエス・キリストの恵みと祝福が、今日もあなたに豊かにありますように。

2025年3月12日水曜日

2025年3月12日の聖句

ノアは主の好意を得た。(創世記6:8)
あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。(1ペトロ2:9)

神があなたを選び、ご自分の民、王の祭司、聖なる国民、神のものとしてくださいました。「ノアは主の好意を得た。」これも、主がノアに好意を持ってくださったということで、神様から向けられた恵みに満ちた御心です。
神様が私たちをご自分のものにしてくださったのは、聖書が「あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです」と言うとおり、このお方の恵みの御業に私たちが仕え、神の光のすばらしさを証しするためです。私たちはかつては神の民ではありませんでした。神と関わりなく生きてきた。ところが今や神のものとされている。私たちはかつては神を知らずに生きていました。ところが今は神を仰いで生きている。神様が私たちに出会ってくださったからです。この光の出来事を、まだそれを知らない人に証しするために、私たちは今神のものとされたのです。
いつも主イエスさまを仰ぎ、キリストの愛のすばらしさを感じて生きていきたいと願います。私たちの内から神の愛をほめたたえる言葉があふれ出し、神を賛美し、共に生きる人に神の愛のすばらしさを証しするものとして生きていきたい。そう願います。主イエス・キリストの恵みが今日もありますように。

2025年3月10日月曜日

2025年3月10日の聖句

平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。
主よ、あなただけが、私を、安らかに住まわせてくださいます。(詩編4:9)
(イエスの言葉)私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:27)

主イエス・キリストは「私は、平和をあなたがたに残し」とおっしゃいました。「残す」です。主はご自分が天に上げられて私たちと一緒にはおられなくなるときのことをおっしゃっています。主イエスは十字架にかけられ、復活させられ、その後、天に上げられる。私たちのところにはおられなくなる。今、まさにそうです。私たちはペトロたちが見たように、この目で主イエスを見ることはできません。しかし、そんな私たちのために主イエスが言ってくださったのです。「私は、平和をあなたがたに残し」と。私たちはキリストが与えてくださった平和を、今、頂いている!
キリストの平和。それは、世で言うところの「平和」とは少し違っているようです。私たちの世界が言うところの「平和」は、殆ど「安全」と同じ意味です。安心で便利な生活を送れることを「平和」と呼ぶ。確かにそういう生活を送れることはありがたいことです。しかし、キリストは世が与えるのとは違う仕方で私たちに平和を与えてくださる。
キリストの平和。それは、神との平和です。私たちは神に対する平和を頂いている。安心して神の前で生きることができる。だからこそ、今日の素晴らしい詩編の言葉が響いているのです。「平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。」私たちはキリストが下さった平和・平安の中で身を横たえて眠ることさえできる。何という素晴らしい恵みでしょう!キリストの平和は私たちに眠りをも下さるのです!私たちの毎日の生活にキリストの平和が実を結びます。これは世のどんな力があたえるものよりも確かな平和であり、大きくて素晴らしい平安なのです。キリストは私たちのために十字架に上げられ、私たちのために神との平和を残してくださったのです。

2025年3月9日日曜日

2025年3月9日の聖句

今週の聖句:
神の子が現れたのは、悪魔の働きを滅ぼすためです。(1ヨハネ3:8b)

今日の聖句:
主を求める者たちの心は喜べ。(詩編105:3)
どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

「信仰によるすべての喜びと平安」と書いてあります。私たちは主イエス・キリストを愛し、信じています。キリストを愛する私たちの喜びと、キリストの愛による平安。私たちは聖霊の力でキリストにある喜びと平安で満たされている。それが私たちの信仰生活ではないでしょうか。
私たちは、気持ちとか感情とか心の動きといった次元では、必ずしもいつでも喜びや平安に満たされているわけではありません。毎日いろいろなことが起きます。怒ることだってあるし、気持ちがいっぱいになってしまうことも、悲しくなってしまうこともあります。生きているのですから、当然です。むしろ、そういう私たちの感情も神が下さったものです。そういう私たちの心の動きを否定する必要はありません。
しかし、海の表面が荒れていても深層はゆっくりと流れているのと同じように、神がキリストにあって下さる喜びや平安は、深いところで私たちを支えます。目に見えるところではいろいろありますが、本当に深いところ、土台の部分は変わらない。私たちはキリストの支えを頂いている。十字架の上におられるキリストが私たちを支える柱のようになって、私たちを確かにしてくださっているのです。

2025年3月8日土曜日

2025年3月8日の聖句

主はこう言われる。「私を求めよ。そうすればあなたがたは生きる」と。(アモス5:4)
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ6:68)

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」そうです。ここには続く言葉が隠れています。「ほかの誰のところへも!」あなた以外の一体誰のところへ行きましょう。ほかの誰のところに行くことに意味があるでしょう。命を求めて、救いを求めて、私たちはイエス・キリスト以外の誰のところへ行くというのでしょうか。どこにも行きません。主イエスこそが永遠の命の言葉を持っておられるのですから!
永遠の命。それは、主イエスと、主イエスをお遣わしになった神を知ることです。神を知り、神を信じ、キリストを愛し、神を愛することこそが永遠の命です。私たちは神の愛の中で永遠に憩うことができる。私たちに、独り子をお与えになる神の愛の福音を告げる言葉を、キリスト以外の一体誰に語ることができるでしょうか。キリストこそが神の愛の御心を私たちに啓き示してくださったお方なのです。
「私を求めよ。そうすればあなたがたは生きる。」そのように神は言われます。神を求めて、私たちは生きます。神が下さった命をもって、私たちは生きていきます。主イエス・キリストが私たちに明らかにしてくださった神の愛の中を、私たちは生きていく。
ですから、神の言葉に耳を傾けて今日も歩みましょう。「御言葉を下さい」と祈りつつ、私たちは聖書に耳を傾けましょう。ここに命がある。ほかのどこでもなく、聖書の御言葉に私たちの心を向けましょう。

2025年3月7日金曜日

2025年3月7日の聖句

言葉数が多いと罪を避けられない。
自分の唇を制御する人が賢い。(箴言10:19)
あなたがたは、「然り、然り」「否、否」と言いなさい。それ以上のことは、悪から生じるのだ。(マタイ5:37)

私はずっと今日の新約の御言葉の意味が分かりませんでした。「然り」とか「否」とかと書くともっともらしい感じもしますが、英語で書けばYes,YesでありNo,Noです。はい、はい。いいえ、いいえ。「はい」と「いいえ」しか言うなということなのか?そんなことを考えて、意味が分からないと思ったのです。
しかし、だんだんと実感するようになってきました。日本語でも「是々非々」なんていう言葉もありますが、「はい」であるにもかかわらず「いいえ」と言ってしまうこと、「いいえ」であるのに「はい」と言ってしまうことがある。あるいは、余計なことや言わないでよい言葉が口から出て来るのを止められないということも珍しくない。「然り、然り」「否、否」と、一見すると当たり前のようなことがなんと難しいのか、と今では思うようになりました。
「言葉数が多いと罪を避けられない。自分の唇を制御する人が賢い。」本当にギクッとする言葉です。一体どれほどたくさんの言葉の過ちを積み重ねてきたことでしょう。言葉の多さが罪を招く。気持ちよくしゃべってしまっているとき、実のところ罪の虜になっているということがよく起きてしまっている。残念なことですが。
そのことを考えたときに、主イエスさまが「まことの御言葉」として私たちのところに来てくださったというのは、本当に大きな救いです。言葉における私たちの罪を新しくしてくださる、まことの言葉。真実の言葉。キリストに示された神の真実が、私たちを新しくしてくださる。この約束の言葉を、心を静めて待ち望みたいと願います。

2025年3月6日木曜日

2025年3月6日の聖句

日の出る所から、日の沈む所まで、諸国民の間でわが名は大いなるものとされる。(マラキ1:11)
(イエスの言葉)「東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。」(マタイ8:11)

ここには集中と広がりの両面があるのだと思います。
日の出る所から、日の沈む所まで。諸国民の間で。東から西から。大勢の人が来て。どれも、大いなる広がりの言葉です。日の出る所も沈む所も、私たちの目では捉えることができないほどの広がりを持つ言葉です。東の果ても西の果ても、そこにたどり着いたと思ってももっともっと奥に広がっている。しかし、そんな終わりのない地の果てから果てに至るまで、あらゆる人が神をあがめ、主なる神様のお名前を賛美する。
その人々は「天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く」と主イエスはおっしゃいました。三人ともユダヤ人です。ユダヤ人の祖の名前です。旧約聖書を開いてみると、神様はアブラハムをお選びになって、「あなたとあなたの子孫にこの地を与える」と約束なさいました。それがアブラハムと神様との約束であり、ここにある具体的な関わりの中で、神の民の歴史が始まりました。私たちも、そういう歴史の中にあった具体的な約束に、信仰によって連なる者となった。それはとても大切なことであると思います。ですから、ここにはユダヤという具体的な神の民への集中が語られているのだと思います。
神様は、私たち人間の歴史の中で一つの民をお選びになりました。しかしその民に約束なさった神の福音は、日の出る所から沈む所に至るまでのすべての人のための約束です。キリストはエルサレムから始まって、ユダヤとサマリアの全土、地の果てに至るまで福音が宣べ伝えられる、と約束なさいました。私たちも、私たちのところに届けられた福音を信じている。私も神の民の一員にされる、という福音です。私たちも神の民として、神の約束にあずかっています。信仰によって参与しています。いや、私たちの信仰に先立って、神が私たちを選び出してくださいました。主イエス・キリストは、私たちを、この世界のすべての人のために救いに加え、東から西まで、あらゆるところでキリストの福音の証人としてくださっているのです。

2025年3月5日水曜日

2025年3月5日の聖句

お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。(イザヤ59:2)
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠の命なのです。(ローマ6:23)

今日は伝統的な教会の暦では「灰の水曜日」と呼ばれています。今日から受難節(レント)が始まります。イースターを前にして、私たちはキリストのご受難を思い、キリストがかけられた十字架を仰いで祈りの日々を過ごしていきます。
「お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」すごく耳に痛い御言葉です。神様は自分の祈りに耳を傾けてくれない、ちっとも聞いてくれないと文句を言ってしまう。ところが、実は私たちの罪がそれを防いでしまっている。私たちの罪が神に御顔を隠させてしまっている。
「罪の支払う報酬は死です」と書いてあります。私たちは罪人です。罪人というのは、神の前に失われたもの、ということです。神のもとから背き出てしまった者、という意味です。失われた息子の譬えのように。私たち自身の罪が私たちを神から遠い者にしている。それが、罪の支払う報酬である「死」です。神に対して、私たちは死んでいる。
今日から始まる受難節を、神の前での悔い改めの祈りの日々として生きていきたいと願います。自分の毎日の歩みを、神様の御前で心を静めて振り返ってみましょう。神の御心に適う私なのか?神を蔑ろにし、隣人への愛にもとる私ではないか?聖なる悔い改めの日々を、始めていきましょう。その祈りの中、私たちは、私たちの祈りに先立つキリストにある永遠の命の尊い宝に生かされていることを知るのです。

2025年3月4日火曜日

2025年3月4日の聖句

娘シオンよ、喜び歌え。
今、私は来て、あなたのただ中に住むからだーー主の仰せ。(ゼカリヤ2:14)
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。(マタイ21:10)

主が来てくださいます。私たちのところへ、主イエスさまが来てくださいます。「今、私は来て、あなたのただ中に住む」と主ご自身が約束してくださいました。主が来てくださる。しかも、「あなたのただ中に住む」とまで言ってくださいます。こっちに来て通り過ぎてしまう、というのではありません。私たちの中に住んでくださる。神が私たちの間に住むために、私たちと共に生きるために来てくださる!
主イエスさまはエルサレムの都に来てくださいました。子ロバに乗って来られたイエスこそ、私たちの王。私たちはまことの王であるイエスが再び来てくださるのを待ち望んで今を生きています。
私たちは神の国の福音を信じます。神の国に生かされていることを信じて、今、キリストと共に生きています。エルサレムに主が来られたとき、都中の人々が「一体、これはどういう人だ」と騒いだ、と書かれています。すると、枝を振ってイエスをお迎えした人々が、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と証言しました。私たちも、同じようにイエスをお迎えして騒ぐ世にあって証しをします。私たちはイエスを喜んでお迎えし、キリストの福音を信じて生きる。私たちの間に宿ってくださるキリストと共に、私たちはこの地で生きていきます。

2025年3月3日月曜日

2025年3月3日の聖句

神よ、私を探り私の心を知ってください。 
私を試し、私の胸の内を知ってください。 
私が悪の道にいないかどうかを見て、 
私をとこしえの道へと導いてください。(詩編139:23~24) 
命に通じる門は狭く、その道も細い。(マタイ7:14)

命に通じる門、その道。それは、主イエス・キリストが歩まれた道です。その門は十字架の下にある。その道は十字架を背負って歩む道です。だからこそ、その門は狭く、その道は細い。 
私たちは十字架にかけられた方を仰ぎます。私たちは十字架につけられた方を神とあがめています。苦しみ、嘆き、悲しみの底に沈み込んで行かれたお方を私たちの神と信じ、このお方に従いたいと願います。ここに命があると信じています。
今日の旧約聖書は詩篇第139編です。私はこの詩編が大好きです。主が私の心を知ってくださり、胸の内を知るために私を試してくださいますように、と願う。私が悪の道に行かずに、とこしえの道、即ちキリストの与えてくださる命の道を行くことができるように、主よ、私を究め、私を知り尽くしてください。
この詩編に現れているのは、深い信頼です。本当に神を信頼し、神を愛し、神に自分の全部をさらけ出すようにして祈っている。十字架のキリストの御前にへりくだり、キリストの道を求める一人の信仰者の祈り。この祈りを私自身の祈りとしたい。そう願います。

2025年3月2日日曜日

2025年3月2日の聖句

今週の聖句:
私たちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。(ルカ18:31)

今日の聖句:
主は彼らを愛し、慈しみの心を抱かれたので、彼らを贖い出された。主は彼らを御許に受け入れ、いにしえより絶えず担ってくださった。(イザヤ63:9)
すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。(マタイ20:30)

主が愛してくださり、慈しみの心を抱いて遇してくださった。私たちは、これを私たち自身への神の愛を告げる言葉として読むことが許されています。私はそう信じています。神は私たちのことをも愛してくださっている。慈しみの心を抱いてくださっている。恐れ多い言葉です。大胆すぎるかもしれません。愛されるに値しない私ですから。しかし、それは真実です。神は御子を下さるほどに私たちを愛してくださったのです。
道端に座っていた二人の盲人は、主イエスの憐れみを信じて叫びました。その目でまだ見たことのないイエスに向かって。しかしこのお方の愛に信頼して叫んだ。私たちも同じです。私たちもこの目でキリストを見たことはない。しかし私たちもイエスの愛を信じ、慈しみを信頼して祈る。この信頼だけ、この信仰だけです。私たちはキリストの憐れみだけを信じます。それでいいのです。それだけでいい。ただキリストだけに心を向けて、私たちの新しい一週間の歩みが始まります。

2025年3月1日土曜日

2025年3月1日の聖句

3月の聖句:
もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。(レビ19:33)

今日の聖句:
思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。(イザヤ46:9)
今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者である神、主がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)

「思い起こせ、初めからのことを」と言って、何を思い起こさせるのか。それは「私は神、ほかにはない」ということに他ならない。主はそう言われるのです。なんてすごい御言葉でしょう!主こそただおひとりの神でいらっしゃる。その事実こそが「はじめのこと」です。私たちはただおひとりの神から始まっている。
今日の新約にはアルファとオメガという言葉があります。ギリシア語のアルファベットでアルファは初めの文字、オメガは最後の文字です。主なる神こそ最初であり、最後でいらっしゃる。やはりここでもそのように書かれている。
三年ほど前に息子の小学校が50周年を迎えました。この学校の始まりは、座間市が子どもの人口増加に対応するために東原に小学校を建てようと考えたということになるでしょうか。それでは、さがみ野教会は?あるいは「私」という存在は?その始まりは何か、そしてその終わりは何か。聖書は言います。初めは主なる神、そして終わりも主なる神。私たちは主なる神の手の中で始まり、そしてやがて終わりを迎える。私たちの存在のすべてをすっぽりと神が包み込んでおられる。
思い起こしましょう、初めからのことを。ただこのお方だけが神でいらっしゃることを。この事実こそが私たちのすべてなのです。

2025年3月23日の聖句

今週の聖句: 鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。(ルカ9:62) 今日の聖句: 朝明けにはあなたの恵みを喜び歌います。私の苦しみの日に、あなたが私の砦、また、私の逃れ場であられたからです。(詩編59:17) 私は今日まで神の助けをいただいて、しっかり...