2025年4月27日日曜日

2025年4月27日の聖句

今週の聖句:
神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに生ける希望を与えてくださいました。(1ペトロ1:3)

今日の聖句:
私は主を愛している。主は私の声、私の願いを聞いてくださる。(詩編116:1)
その借りのある者が、主人の前にひざまずき懇願した。「堪忍してください。すべてお返ししますから」。すると主人は憐れに思い、彼を放免し、全額帳消しにしてやった。(マタイ18:26~27)

今日の新約聖書の御言葉は、莫大な借金をした男の話です。主イエスがしてくださった譬え話です。どう逆立ちしても絶対に返しようのないほど、天文学的な額の借金がある男が必死に言います。「堪忍してください。すべてお返ししますから」。絶対に無理です。それでもそう言うより他ない。「堪忍してください」以外の言葉が出てきようもない。これが神様の御前にある私たちの姿です。
主人はそんな惨めな破産者を赦してくださいました。「すると主人は憐れに思い、彼を放免し、全額帳消しにしてやった。」赦してやった理由はただ一つです。憐れに思ったからです。主人の憐れみによって。ただそれだけです。他には何の理由も根拠もない。私たちはただ神の憐れみだけのお陰で生きています。
だから、私たちの賛美はただこれだけです。「私は主を愛している。主は私の声、私の願いを聞いてくださる。」私たちは主を愛します。そんな私たちに主が望んでおられるのは、私が憐れんで頂いたように、私も隣人を憐れむ者となることです。他者を赦す者となることです。赦して頂いた借財の莫大さと、圧倒的な神の赦しの恵みだけが、私をその道に生かすのです。

2025年4月26日土曜日

2025年4月26日の聖句

金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。(コヘレト5:9)
私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。(1テモテ6:7~8)

本当にそうだな、と思います。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。」本当にその通りです。私たちもそのことはよく知っている。それなのに、私たちの欲望のなんと際限のないことでしょう!もっと欲しい、もっと安心したい、もっと満たされたい。そして、金銭や富といったこの世の豊かさによって、それを満足させようとしてしまいます。しかし、その先に本当の満足はない。もっと欲しくなるだけ、もっともっとないと不安になるだけ。聖書が言うとおりです。そうであるからこそ、欲に振り回される自分を見せつけられます。
使徒パウロは若い伝道者テモテに言います。「私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」何も持たずに裸で母の胎を出てきた私たち。私たちが持っているものは、すべて与えられたものです。その「与えられた」という事実を謙虚に受け止めることを忘れたとき、私たちは与えられたものに満足することをやめ、欲望を満足させることばかりに夢中になってしまいます。旧約の時代から既に聖書が「貪るな」と教えていたというのは、本当に深い知恵です。私たちの貪りの罪がどんなに深くて恐ろしいかを聖書は見抜いています。
神は私たちが生きるために必要なものをすべて備えてくださいました。善人にも雨を降らせ、悪人にも晴れの日を恵んでくださる神の慈しみと愛に信頼して生きていきたい、と願います。神の愛が私の命を支えています。主イエス・キリストの憐れみの中をどうか今日も歩ませてください、と祈ります。

2025年4月25日金曜日

2025年4月25日の聖句

イスラエルの人々はサムエルに言った。「どうかお止めにならないでください。私たちをお助けくださるようにと、私たちの神、主に叫び続けることを。」(サムエル上7:8)
(パウロの獄中からの手紙)私は自分が今経験しているすべてのことが、最後には私を救いへと導いてくれることを知っているのです。なにしろ、あなたがたの祈りと聖霊の働きが私を支えてくれています。イエス・キリストによる聖霊が私を助けてくださるのです。(フィリピ1:19)

本当に素晴らしい御言葉です。「私は自分が今経験しているすべてのことが、最後には私を救いへと導いてくれることを知っているのです。」この手紙を書いた使徒パウロは、牢獄の中にいます。パウロには反対者もいたし、迫害も受けていたし、本当に苦しく辛いことがたくさんありました。ところがこの人は、そういうすべてが最後は私を救いに導く、と言います。本当に素晴らしい信仰の確信です。
私たちはどうでしょうか。私たちにもいろいろなことが起こります。そのすべてが私を救いに導く。そして「私」という人間の救いは私一人のものではなく、周りにいる多くの人々にとっても意味を持つ、と信じます。私も、私の隣人も、今私たちの身に起こっている一つひとつの出来事を通して神の素晴らしい救いに導かれている。
「なにしろ、あなたがたの祈りと聖霊の働きが私を支えてくれています。イエス・キリストによる聖霊が私を助けてくださるのです。」私たちを導く聖霊なる神様ご自身が、私たちに信仰を与え、私たちを神のものとして生かしてくださいます。私たちは信頼をもって神に祈り、神に向かって叫び、助けを求めます。キリストが私たちの祈りに必ず耳を傾けてくださるからです。

2025年4月24日木曜日

2025年4月24日の聖句

私の心は喜び躍ります。
あなたがこのようにまで思いを掛け、
助けてくださるのですから。(詩編13:6)
人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口の利けない人たちを話せるようにされた。」(マルコ7:37)

神様が私たちを心に掛け、助けてくださった一つひとつの出来事を今思い起こし、心喜び、踊って一日を始めましょう。
「望みも消えゆくまでに」というすてきな讃美歌(聖歌)があります。このような歌詞です。
「望みも消え行くまでに、世の嵐に悩むとき
数えてみよ、主の恵み。汝が心は安き得ん。
数えよ主の恵み、数えよ主の恵み
数えよ一つずつ、数えてみよ主の恵み。」
望みが消えてしまうと思われるとき、実はそこにはすでに神の恵みがあり、神の恵みによって私はこれまで生かされてきた。恐れや不安や不満ではなく主の恵みを数えよう、と歌います。この信頼の根拠が主イエスの十字架に示された愛であることは言うまでもありません。御子を十字架にまでつけて私たちに与えてくださった神は、御子と一緒にすべてのものを下さらないわけがない。必ず、私たちを素晴らしい恵みの数々で生かし、歩ませてくださる。
今、心を神に向けて高くあげましょう。喜びを献げましょう。賛美の歌を神に献げましょう。そうやって、新しい一日を始めましょう。

2025年4月23日水曜日

2025年4月23日の聖句

私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありなさい。(創世記17:1)
(イエスは)トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

「私の前に歩み、全き者でありなさい!」全能の神であるお方がそのようにおっしゃいます。全能の神の御前に「全き者」でいられるなんて、一体誰に可能なのでしょうか?思わずそう問わずにいられないような言葉です。神様は無理難題をふっかけておられるのでしょうか?
そのことを考えるときに、今日の新約聖書の御言葉は大きなヒントになると思います。トマスは他の弟子たちのところへ復活の主イエスが来られたときにはおらず、「主が来てくださった」という知らせを聞いても信じることができませんでした。主イエスの釘指された手にこの指を触れ、槍で刺された脇腹にこの手を差し入れなければ信じない、と言いました。そんなトマスのところへ主イエスが来てくださり、おっしゃったのです。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」この言葉を聞いて、トマスは主に言ったのです。「私の主、私の神よ」と。不信仰な者から生まれた信仰の告白を、主イエスは受け入れてくださいました。
神の御前に全き者。それは、神を信じる者です。自分の目や手よりもキリストを信じる者です。単純にキリストを信じ、信頼する者。その人を神は「全き者」と言ってくださるのです。トマスのこの信仰は、彼の心の強さが生み出したものではありません。彼の前に来てくださったキリストが与えてくださったものです。キリストは私たちのところにも来てくださっています。礼拝において、キリストは私たちと出会ってくださる。私たちはその恵みにあずかっています。

2025年4月22日火曜日

2025年4月22日の聖句

私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちのすべての過ちを、主は彼に負わせられた。(イザヤ53:6)
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。(1ペトロ2:24)

羊のようにさまよい、迷子になっているのに自分の道にこだわっている私たち。神様の御許から離れているのに、それが過ちだと認めようとしない私たち。その私たちの過ちのすべてを、主はキリストの上に負わせられた。主イエス・キリストが私たちの罪のすべてをその身に負ってくださった。
「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため」、と聖書は言います。キリストは私たちを新しくするために、その身に私たちの罪をすべて負ってくださった。私たちがなお罪と悪にこだわり続けるためではなく新しいものとして生きるために、キリストが古い私をご自分と一緒に十字架につけてくださった。
昨日、ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコが亡くなりました。この教皇が「回勅 ラウダート・シ」という文書を出しています。人間の活動によって環境的な、そして社会的な危機に直面した私たちはどう生きるのか、私たちが担うべき責任とは何か、ということについて書かれています。例えばこのような問題においても、キリストの十字架と復活という新しい現実に生きているという事実が意味を持ちます。私たちをこれまで支配してきた罪と死と悪の物語は過ぎ去ってキリストの命の物語に私たちも巻き込まれている、という新しい現実に目を向けるとき、私たちはどう生きるのか?このキリストの命がかけられた世界のために、私たちは何をするのでしょうか。

2025年4月21日月曜日

2025年4月21日の聖句

あなたがたがもし心を尽くして主に立ち帰るなら、自分たちの中から異国の神々を除きなさい。(サムエル上7:3)
忘れてはならないのは、ただ一人の神、すなわち父なる神がおられるということです。万物はこの神の中に起源を持っており、神は私たちの命の帰り行く場所でもあられます。また、ただ一人の主である方、すなわちイエス・キリストがおられます。万物はキリストによって生じ、このキリストによって私たちは命を得ているのです。(1コリント8:6)

どなたの言葉であったかは覚えていませんが、「父母未生以前の闇を恐れる」とおっしゃった方がおられるそうです。自分が生まれる前よりもさらに遡って、自分の父や母が生まれるよりもさらに前。私の存在がまだ全くなかったとき。そこはまったくの闇でしかない。恐れるしかない。
自分が死んだ後の闇を思って恐れるということは多くの人が経験することですが、確かに、自分も父も母も生まれる前もまた闇です。私たちの手の届かない場所、私たちにはどうすることもできない範囲です。
聖書はそんな私たちに言います。「万物はこの神の中に起源を持っており」。私の存在も、私の父や母も、すべての起源は神の中にある。私の命の前も後も、私たちの手には届かない闇です。どうすることもできない。しかし、始まりは神にあり、私たちが帰る場所も神の御許です。私たちは闇ですが、神はその私たちの前にも後にも、すべてを治めておられるお方です。
イエス・キリストによって神が示してくださった祝福と命の中に、私たちの存在はすっぽりと包み込まれている。それが「私」という存在の秘密です。

2025年4月20日日曜日

2025年4月20日の聖句

今週の聖句:
わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。(黙示録1:18)

今日の聖句:
ヒゼキヤは、その手紙を読み、主の宮に上って行き、それを主の前に広げた。(列王記下19:14)
イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。(ルカ9:28)

イエス・キリストは甦りました。死者の中から復活なさいました。キリストは、今、生きておられます。主の復活を祝う聖なるイースターの朝を迎えました。イースター、おめでとうございます。キリストのご復活を心から祝います。イースターの祝福を祈ります。
「わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」死も陰府も、このお方を支配することはできませんでした。ほんのひととき、死がこのお方を呑み込み、このお方は陰府に降って行かれました。しかし、死の力であっても、どのような悪であっても、陰府の力でさえもキリストを支配することはできませんでした。イエスは死と陰府の扉を開くことがおできになるし、私たちをそこから救う力と権威を持っておられます。
今日の新約の御言葉は、主イエスがペトロとヨハネとヤコブだけを伴って山に登られたときのこと。この後山の上で主イエスのお姿が変貌します。衣は白く光り輝き、主は栄光に包まれた。復活の栄光を先取りするような主のお姿を、ペトロたちは垣間見たのです。私たちが神を礼拝するときにあずかっているのも、同じ主の栄光です。祈り、賛美を献げているお方は、復活した神の子です。私たちはこの栄光に満ちたお方をあがめ、礼拝している。私たちは死と陰府の力が支配しているかのように見え、また人々がそう振る舞っている世界に生きています。しかし本当はキリストの復活の命が支配していることを私たちは知っています。主の復活の栄光が満ちていることを知っています。その事実を知る者として、キリストの支配の中を、私たちは旅しているのです。

2025年4月19日土曜日

2025年4月19日の聖句

主が私を遣わされた。主の恵みの年と、私たちの神の報復の日とを告げるために。(イザヤ61:1,2)
するとイエスはその犯罪人に向けて、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43)

主イエスさまの隣で十字架にかけられた二人の犯罪人。マタイはこの人たちは強盗であったと伝えています。十字架刑は生きたままの人間を磔にする極めて残虐な処刑法です。重罪人にしか執行されませんでした。この二人の強盗も、他の方法では駄目だと見なされたほどの犯罪人だったのでしょう。
彼らの一人はイエスに言いました。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」ところがもう一人が言ったのです。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言いました。
主イエスが「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われたのは、こういう人物です。強盗であり、十字架にかけられるほどの重罪人です。十字架にかけられるほどの最悪の罪人に向かって、主イエスは救いを告げてくださいました。私たちも覚えたいと願います。最悪の罪人、それはこの私のことです。十字架にかけられて処刑されるべき犯罪人、それはこの私。最悪の罪人に向かって、キリストは救いを宣言してくださる。このキリストの言葉、そしてキリストの存在にすがらなければ私たちは生きることができない。その事実を深く胸に刻みたいと願います。そして、明日のイースターの朝を静かに待ち望みたいと願います。

2025年4月18日金曜日

2025年4月18日の聖句

その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:5)
つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。(2コリント5:19)

私たちの生きるこの世界を今支配しているかに見える言葉は、憎しみの言葉です。分断の言葉です。不信感の言葉です。そういう言葉に同調して身構えることが現実的な生き方だと考えられている世界です。
しかし神さまは私たちに別の言葉を委ねてくださいました。和解の言葉です。戦いや憎しみ、不信感ではなく、和解と平和の言葉です。忍耐と愛の言葉です。主イエス・キリストにあって神がこの世界をご自分と和解させてくださいました。私たちの罪の責任を問うことなく、キリストを私たちのための和解の使者としてくださった。私たちはキリストを十字架にかけて殺した。しかしそのキリストを神が復活させてくださった。私たちの世界は死や憎しみが支配しているのではない。罪と悪と死の物語が私たちの世界を決定づける物語ではない。確かに、この世界は分断が加速しています。憎しみが幅をきかせています。しかしそれはキリストを十字架にかけた物語です。神はキリストを復活させて、私たちを神の新しい物語に巻き込んでくださいます。平和と和解、愛の物語です。神を永遠の父と呼び、キリストを平和の君と呼ぶところで啓き示される平和の物語です。
教会はキリストの和解の言葉を語り合う共同体です。私たちは教会で生き、教会の一員として和解の言葉を語り合い、神の平和を現実のものとして経験する。そのような神の奇跡の共同体に、私たちは生かされているのです。

2025年4月17日木曜日

2025年4月17日の聖句

しかし、私は常にあなたと共にある。
あなたは右の手を捕らえてくださる。(詩編73:23)
(イエスの祈り)「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:42~43)

今日は受難週の木曜日です。聖なる木曜日です。この日の夜主イエスは、ルカが伝えているところによると、オリーブ山で祈りました。神の御前にひざまずき、汗を血の滴りのように流して祈りました。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」ご自分がこれからかけられる十字架を前に、「この杯を私から取りのけてください」と祈られたのです。
イエス・キリストは十字架へと向かっていかれます。神に祈り、御心を求めつつ、十字架へと向かっていかれます。「私の願いではなく、御心のままに行ってください。」そう祈る主イエスに、天から天使が現れ、力づけた、と書かれています。神ご自身が御子の祈りを支えておられたのです。
「しかし、私は常にあなたと共にある。あなたは右の手を捕らえてくださる。」まさに、主イエスのための言葉です。神はイエスと共におられる。神ご自身が、その右の手でイエスを支えておられる。キリストが神に支えられて十字架に向かわれたときにも、そして十字架にかけられたときにも、神は共におられた。キリストの苦しみに神ご自身が伴われた。そういうことではないでしょうか。
私たちのためのキリストの苦しみに、今日、私たちの心を注ぎましょう。私たちのために、神の御心に従って苦しまれたお方に、私たちの賛美を献げましょう。聖なる祈りの日を、今日、過ごしましょう。

2025年4月16日水曜日

2025年4月16日の聖句

人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もなくなる。(しかし)主の慈しみは世々とこしえに。(詩編103:15~16、17)
この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。(1コリント15:53)

「人の生涯は草のよう。」その通りです。しかし悲しい言葉です。だれにでも必ず訪れる現実です。誰もが必ず死ぬ。どんなに咲き誇り、その命を謳歌したとしても。現実ですが、簡単な現実ではありません。「人の生涯は草のよう」というのは、きっと私たちよりも遙かに死という現実を直視していた人々の実感がこもった言葉なのだと思います。「風がその上に吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もなくなる。」
人の生涯は草のよう。「しかし」、と私たちは言うことができる。私も、私の愛する人も、草のようにすぐに枯れてしまう脆くて儚いものに過ぎない。しかし、主の慈しみはそうではない。主の慈しみのスケールは、私たちの命のスケールを超えている。主の慈しみは世から世へ、とこしえに続く。主の慈しみにこそ、私たちの望みがある。
聖書は、その私たちの望みを「復活」と言い表します。「この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。」神が私たちを朽ちず死なない新しい体をもって装ってくださる。私たちは弱く儚く小さな者だけど、神は私たちを確かにしてくださる。主イエス・キリストが墓から復活させられたのと同じように、私たちにも訪れる復活の朝、キリストが私たちを起こしてくださいます。その日を望みつつ、今日の一日の営みをなしていきたいと願います。

2025年4月15日火曜日

2025年4月15日の聖句

賢者たちが主の言葉を拒むのなら、彼らはどんな知恵を教えることができるというのか。(エレミヤ8:9)
知者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものとされたではありませんか。(1コリント1:20)

知者も学者も賢者も、神さまの御言葉を歯牙にもかけません。全く無視します。特殊な心を持っている人にしか通用しないもの、あるいは昔の宗教の文献、と考えます。そうすると、こちらとしては言い返したくなるし、こちらのすごさを少しでも見せたくなる。しかし本当はそんな必要ないのです。私たちは愚か者とみられて良い。馬鹿だと思われて一向に構わない。なぜなら、神の知恵である十字架の言葉は、神の愚かさが結んだ実です。私たち罪人を愛し、しかもそのためにご自分の御子を十字架にまでおかけになった。神の愚かさ、神の弱さがそこで輝いた。だから、私たちも愚かになった神の言葉に聞きます。愚か者として福音を信じます。神の愚かさは人間の賢さよりも賢く、神の弱さは人間の強さよりも強いからです。
私たちは神様の御前にへりくだって福音に耳を傾けます。身も心も低くして神の言葉を信じます。ここにこそ私たちが生きるべき知恵があると信じています。私たち人間の知恵は、神様の御前には愚かなものに過ぎない。驚きをもって神の言葉に聞き入りたい。
今週は受難週です。キリストの十字架への道を私の心に刻んでください、と祈りつつ生きていきます。主イエス・キリストをくださった神の御心を私の知恵として頂いて、私もキリストの後に従っていきたい。そう願います。

2025年4月14日月曜日

2025年4月14日の聖句

地は主の慈しみに満ちている。(詩編33:5)
神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、手から雨を降らせて実りの季節を与え、あなた方の心を食物と喜びとで満たしてくださっているのです。(使徒14:17)

ここのところ春の雨がよく降ります。良いお天気で暖かい日も、肌寒い雨の日も、神さまが私たちのために備えてくださった一日です。神様は私たちが生きるために必要なものをすべてこの世界に備えてくださいました。この世界は神様の慈しみで満ちています。その神様の御心が、見えているでしょうか?
「地は主の慈しみに満ちている。」この御言葉を、深く私たちの心に刻みたいと願います。私たちの思いと心とを神様に向け、神様を求めて生きていきたいと願います。主イエス・キリストの恵みと祝福が今日も注がれている。そのことを信じ、神さまを信頼して生きていきましょう。
「神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、手から雨を降らせて実りの季節を与え、あなた方の心を食物と喜びとで満たしてくださっているのです。」
この世界に満ちるすべてのものは神様を証ししています。この素晴らしい世界をお造りになった方をほめたたえています。私たちはキリストという神の言葉を聞き、その慈しみを知りました。この世界のために独り子をくださる神の愛を知りました。神の愛が私たちを覆っている。その中で、今日の私たちの営みもまた支えられ、導かれているのです。

2025年4月13日日曜日

2025年4月13日の聖句

今週の聖句:
人の子も上げられねばならないそれは、信じる者が皆、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:14b,15)

今日の聖句:あなたがたの誰も、同胞に損失を与えてはならない。あなたの神を畏れなさい。(レビ25:17)
キリスト・イエスにある交わりにふさわしいように、あなたがたの間ではそのように心がけなさい。(フィリピ2:5)

主イエス・キリストが私にしてくださったように。主にある私たちの交わりの特質はそこにある、と聖書は言います。わが身を振り返れば、現実はそうなってはいないと言わないわけにはいきません。主の憐れみと慈しみにすがるよりほかありません。どうか主が私たちの間にいてくださいますように。
今週の聖句では「人の子も上げられねばならない」と、主イエスがおっしゃっています。ヨハネによる福音書で主イエスが「上げられる」とおっしゃるとき、その意味は、キリストが十字架の上に上げられる、ということです。同時にそれはキリストが神の御許に上げられることでもある。主は上げられました。十字架の上に掲げられました。そのキリストが神の御許におられて私たちのために永遠の命を与え、神の御許に私たちを連れ出してくださっている。そのキリストが私たちの間におられます。
ですから、私たちの交わりの基は礼拝です。神様の御前にひれ伏し、神をほめたたえる。その交わりを主はご自分のものとしてきよめてくださるのです。

2025年4月12日土曜日

2025年4月12日の聖句

ヨシュアは顔を地に着けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」(ヨシュア記5:14)
(サウロの言葉)そこで、私が、「主よ、あなたはどなたですか」と申しますと、主は言われました。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ、自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。」(使徒26:15~16)

モーセと共に40年間の荒れ野の旅をしたヘブライ人たち。いよいよ新しいリーダーであるヨシュアと共にヨルダン川を渡って、いよいよ約束の地へと入りました。最初に見えてきたのはエリコという大きな町です。これから遂にエリコと一戦を交える。そこに向けて出て行く前の晩のことです。
ヨシュアは抜き身の剣を手にした男が立っているのを見ました。敵か、味方か。するとその人は言った。「いや、私は主の軍勢の長である。今やって来たのだ。」それを聞いてヨシュアはひれ伏した。そして言いました。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」
目の前にあるエリコは大きな町です。とても敵いそうには見えない。しかし、そこには主の軍勢がいてくださる。共に戦ってくださる。ここに神がいてくださることをヨシュアは知りました。どんなに勇気づけられたことでしょう。どんなに励まされたことでしょう。明くる日、ヨシュアと民は主と共にエリコに向かっていきました。
今日の旧約はサウロの言葉です。イエスを主と信じる者たちを迫害するためにやって来たサウロに、主イエスが出会ってくださった。サウロはここに神がおられること、そして、自分とで合っていてくださることを知り、恐れました。
主は私たちと出会うために私たちのところへ来てくださいます。私たちが立つ場所、それは主の土地です。主がおられるところです。主イエス・キリストの御前に私たちは生かされている。その事実をおそれつつ、主を仰ぎ、主と共に生きる光栄にあずかるのです。

2025年4月10日木曜日

2025年4月10日の聖句

勢いと力は御手にあり、その御手によってあらゆる者を大いなる者、力ある者となさいます。(歴代誌上29:12)
神の力強い御手の下でへりくだりなさい。そうすれば、しかるべき時に神はあなたがたを高くしてくださいます。(1ペトロ5:6)

神は人を高くし、また低くなさいます。私たちの浮世の生活においても、そのことを深く心に覚え、へりくだりたいと願います。
おとめマリアの胎に子どもが宿ったとき、彼女は神をたたえる歌を口にしました。「主は御腕をもって力を振るい、思い上がる者を追い散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を何も持たせずに追い払い、慈しみを忘れず、その僕イスラエルを助けてくださいました。」
神が高めてくださることだけに心を注ぎ、へりくだる一人の信仰者の言葉です。今高くなり、満足し、満ち足りている人を神様は引きずり下ろしてしまう。神様の御前に畏れを抱き、キリストというまことの王の御前にへりくだる者でありたい。
「神の力強い御手の下でへりくだりなさい。そうすれば、しかるべき時に神はあなたがたを高くしてくださいます。」この「しかるべき時」は、私たちの人生の長さでは計り知れない時、神がお定めになる時です。この世においては、キリストがそのように歩んでくださったように、私たちは乏しく、弱く、小さな者として生きるように招かれています。キリストの僕として。ただ神様だけが大きくなり、神様の誉れだけが賛美されますように。

2025年4月9日水曜日

2025年4月9日の聖句

主を仰ぎ見る人は、辱めに顔を伏せることはない。(詩編34:6)
私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模本を示したのだ。(ヨハネ13:15)

主イエスはおっしゃいます。「私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模本を示したのだ。」主イエスがしたとおりとは、一体何を意味しているのでしょうか。ヨハネによる福音書第13章は、主イエスと弟子たちとが十字架の前の夜に一緒に食卓に着いたときのことを伝えています。主イエスは最初にたらいに水を汲んで来て、弟子たちの足を洗ってくださいました。足を洗うのは、奴隷の仕事です。当時はサンダルのようなもので歩いていましたから、足がすごくよごれます。その足をきれいに洗う。相手の足元にかがみ込んでする仕事です。主イエスは弟子たちの奴隷になって仕えてくださった。彼らの足を洗い終えて、主がおっしゃったのです。「私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模本を示したのだ。」
主は私たちがお互いの奴隷になって仕えることを望んでおられます。奴隷というのは、大変なことです。奴隷は相手の意のままに従います。時には屈辱的な目に遭うこともあるでしょう。人が嫌がる仕事をしますし、それを断ることもできない。
今日の旧約にはこのようにありました。「主を仰ぎ見る人は、辱めに顔を伏せることはない。」私たちが奴隷仕事の辱めに顔を伏せないで済むのは、その場所でキリストを仰ぎ見るからです。私たちに先立って私たちの奴隷になってくださった主イエスさまを仰ぎ見るからです。これはキリストの道だと私たちは知らされる。そこで、私たちは解放されます。
今日の御言葉は私の心には痛いです。主イエスのお言葉やしてくださったこととはかけ離れています。ところが主イエスはそんな私の足をも洗ってくださるお方。その事実の前に、畏れをもって生きていきたいと願います。

2025年4月8日火曜日

2025年4月7日の聖句

もしあなたがたが主に立ち帰るなら、あなたがたの神、主は恵みに満ち、憐れみ深い方となり、あなたがたから御顔を背けることはない。(歴代誌下30:9)
(イエスのシモンへの言葉)しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)

シモン・ペトロは主イエスが捕らえられ、大祭司の家で取り調べを受けているときにその中庭に忍び込みました。その場所で三度繰り返して、イエスを知らないと言いました。ほんの数時間前、主イエスがシモンにおっしゃった。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはそれを聞いて心外とばかりに言ったのです。「主よ、ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟しております。」しかし主イエスはおっしゃった。「ペトロ、言っておくが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」果たして、ペトロは主イエスがおっしゃったとおりにしてしまった。サタンの誘惑に負けたのです。
そんなペトロにとっての救いは、今日の主イエスの御言葉です。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」私は不誠実だし、不真実です。それ以外の何者でもない。しかし、主イエスが真実を貫き、この不真実な私のためにも祈っていてくださる。その事実だけがシモン・ペトロを立ち直らせたのです。
主イエスは私たちのためにも祈っていてくださいます。主のもとに立ち返りましょう。キリストの光の中、主の赦しの中に帰りましょう。「もしあなたがたが主に立ち帰るなら、あなたがたの神、主は恵みに満ち、憐れみ深い方となり、あなたがたから御顔を背けることはない。」主は私たちから決して御顔を背けないでいてくださいます。私たちがどんなに醜悪で、見るも無惨で、どうしようもなくても。主は私たちを捨てないでいてくださる。主の真実は永遠です。

2025年4月7日月曜日

2025年4月7日の聖句

主は虐げられているすべての者のために、正義と公正を行う。(詩編103:6)
だから、なすべき善を知りながら行わないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)

主が、正義と公正を行われる。虐げられているすべての人のために。ここに、私たちのなすべき善がある。聖書はそのように言います。
聖書が「正義」と言うとき、それは、一般的に言って良いこと、という意味ではありません。聖書の言う「正義」は、神が私たちの生きることを望んでくださる慈しみの御心です。私たちの命を望んでくださる神の愛です。それは、わたし個人への御心ではない。もちろん「わたし」もその中に含まれますが、それだけではなく、もっともっと広い、多くの人への御心です。すべての人が生きることを、神は望んでいてくださいます。ここに神の「正義」がある。
そうであるからこそ、「なすべき善」が私たちにもある、と聖書は訴えかけているのです。神の慈しみの御心を知る者として、神の愛に生かされている者として、私たちにはなすべき善がある。神の本当に広く素晴らしい御心に、私たちも生きるように神に招かれています。
虐げられている人が虐げられるままにされることを、主は決してお望みにはなりません。私たちは虐げられている人をテレビの向こう側で見ながら、呑気に、「神様はどうしてこんなことを許しているのか」と文句を言いがちです。神が望んでおられるのは、その人のために私がどう生きるか、というところでの変革ではないでしょうか。神の正義の御心に従ってなすべき善に生きることを、神は私たちに願っておられます。

2025年4月6日日曜日

2025年4月6日の聖句

今週の聖句:
身代金として自分の命を献げるために来た。(マタイ20:28)

今日の聖句:
惨めに家なくさまよう人々を家に迎えよ。(イザヤ58:7)
すると、王は彼らに答えます。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)

私たちの王であるキリストはおっしゃいます。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」最も小さい者にしたことは、その人の兄弟であるキリストご自身にしたことに他ならない。キリストは、この世で軽んじられている人、飢えている人、喉が渇いている人、よそ者、裸の人、病気の人、牢にいる人をご自分の兄弟と呼び、その人への私たちの愛を決してお忘れになることがないのです。
ここに「よそ者」とあります。特に今、「よそ者」と呼ばれる外国人への社会の差別感情が非常に激しくなっていると思います。○○人が多くなると治安が悪くなるとか、安心できなくなるとか、そのようなことがまことしやかに言われます。△△人は出て行けとか、帰れとか、そういう心ない言葉を口にする人も増えてしまいました。この点において、私たちキリスト教会は負けてしまっています。この声に打ち勝つことができていない。しかし、明確にこのような差別は聖書の告げているところと矛盾しています。それならば、私たちはどう生きるのでしょうか。
私たちの目の前にいる人、しかも私が軽んじがちな人は、キリストの兄弟です。キリストの愛する一人の人間です。主イエス・キリストの僕として、私たちはどう生きるのでしょうか。

2025年4月5日土曜日

2025年4月5日の聖句

主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めます。(サムエル上2:7)
あなたがた一人ひとりに言います。分を超えて自らを買いかぶったり過信したりしてはなりません。むしろ冷静な自己評価に努めなさい。そうして、それぞれが神の各自に対してお定めになったように、また信仰の基準にふさわしいようにしなさい。(ローマ12:3)

自らの分に応じて自己を評価する。これほど難しいことがあるでしょうか。それはたいていの場合、大きすぎるか小さすぎるか、いずれにしても正しい大きさを認識できていないものだと思います。
「あなたがた一人ひとりに言います。分を超えて自らを買いかぶったり過信したりしてはなりません。むしろ冷静な自己評価に努めなさい。そうして、それぞれが神の各自に対してお定めになったように、また信仰の基準にふさわしいようにしなさい。」
私たちは神が各自に対してお定めになったように自らを見るように、と言います。即ち、私たちは「信仰の基準にふさわしいように」自分自身を見つめる。信仰の基準へのふさわしさとは一体何か。それはキリストの十字架以外のものではないでしょう。私たちは、自分を「キリストが十字架にかけられ、買い戻してくださった私」として知ることが許されています。キリストの命の大きさこそ、私たちの精確な大きさです。
私たちのことは主が貧しくさせ、富ませます。神が私たちを低くし、また高くしてくださいます。すべては主がなさること。だから私たちは自分を他人との比較で知ることはしない。神がお定めになった私であるだけです。ただキリストだけです。キリストの命の尊さによって自分を知るだけです。そこでこそ、自分を過大に見たり過小に見たりする過ちから解放され、神が定めてくださった尊さを捉えることができるのです。

2025年4月4日金曜日

2025年4月4日の聖句

主は私たちを再び憐れみ、私たちの罪をことごとく、海の深みに投げ込まれる。(ミカ7:19)
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9)

なんてありがたい御言葉なのでしょうか。主は私たちを憐れんでくださいます。「私たちを憐れんで、私たちの罪をことごとく」。そう、「ことごとく」です。一部ではない。ちょっとだけ、目に付くところだけ、ではありません。ことごとくです。私たち自身が知らないところまでも、私が気付くことのできていない、あるいは見たくなくてごまかしている、ドロドロしたものも、どうしようもないものも、あるいはもっと醜悪で、悪の力に呑み込まれ、悪魔の奴隷としてしか生きられていない深みをも。それが「ことごとく」です。
「主は私たちを再び憐れみ、私たちの罪をことごとく、海の深みに投げ込まれる。」そのことごとくの罪を、主はすべて海の深みに投げ込んでくださいます。もう浮かび上がってこない。完全に沈めてしまう。神様がかたを付けてくださる。そう、これは神がなさることです。神ご自身の御業です。私たちが自分で処理しなければならないのではない。私たちが自分で努力して罪や悪魔と決別しなければならないのではない。表面的に、良さそうになることならできるかもしれません。うわべだけ取り繕うことなら私たちにもなんとかできるかもしれない。しかしことごとく、すべての罪を海の深みに沈めてしまうことは、神様にしかできない。神が私たちを清めてくださいます。
ですから、私たちがすることは、神の光の中で自分の罪を認め、告白することです。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」神の愛に信頼する。神が私たちをご自分のものとしてくださるからです。

2025年4月3日木曜日

2025年4月3日の聖句

わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。(エレミヤ2:13)
(イエスの言葉)私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出ある。(ヨハネ4:14)

二つの悪、と言われています。一つは、命の水の泉である神を捨てたこと。そしてもう一つは、その代わりに役に立たない水溜を掘ったこと。つまり、神様ではないものに神様の代わりをさせようとしたこと。それが神の民の犯した悪だ、と言っています。この「悪」というのは、私たちの命や魂を損なう、ということだと思います。役に立たない水溜に頼ることは私たち自身も周囲の人も深く損なう悪に他ならない。
神様ではないものに神様の代わりをさせる。もしかしたら、現代のそういう「神々」は、スマホの中にいるのかもしれません。現実逃れをしたり、ちょっとした憂さを晴らすための時間つぶしをしたり。そんなことをしながら、私たちはもしかしたら自分のすごく大切な何かをそんな神々に献げてしまっているのかもしれない。
しかしそれは、水を溜めることのできない水溜に過ぎません。何の役にも立たない。私たちから奪うだけで、命を養うことはない。主なる神様はそうではない。私たちを生かす生ける命の水です。キリストは私たちの魂を養い、私たちを伴ってご自分の命の水によって私たちを潤してくださいます。
今、渇いていませんか?あなたの魂はあえいでいませんか?他のどんなものに癒やしを求めても、根本的な解決にはなりません。私たちの魂を奥底から養い、救ってくださるお方がここにいてくださる。主イエス・キリストの御許へ、今帰りましょう。

2025年4月2日水曜日

2025年4月2日の聖句

「子は父を敬うものだ。しかし、私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるのか」と主は言われる。(マラキ1:6)
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。(2コリント1:3)

「子は父を敬うものだ。」十戒でも命じられていることです。更には、十戒でなくても世界中の多くの文化で言われていること、とも言えると思います。子は父を敬う。当たり前のように考えられている。それなのに神に対してはどうなのか、と言われています。「『子は父を敬うものだ。しかし、私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるのか』と主は言われる。」私たちは神を「父よ」とお呼びして祈りながら、神をまことの父として敬っているのか。神への畏れは、神を敬う信仰はどこにあるのか。神様は本当に深い嘆きをもって私たちにそう問うておられるのだと思います。
神様を敬い、神様を愛して生きていきたい、と願います。父としての神の慈しみに、私たちは神の子どもとして応えたい。神様をまっすぐに愛し、神の子として生きていきたい。
主イエスが教えてくださった主の祈りでは、「天にまします我らの父よ」と、神を「父」とお呼びし、それに続いて「御名を崇めさせたまえ」と祈ります。神様への本当に親しい呼びかけをしたときに、それに続いてすぐに神様のお名前を賛美し、礼拝することを主イエスが教えてくださいました。ここに私たちの信仰の心があるのです。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。」父なる神様をあがめ、ほめたたえるために、私たちは新しい一日を歩んでいきます。

2025年4月1日火曜日

2025年4月1日の聖句

4月の聖句:
あのお方が私たちと共にいてお話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。(ルカ24:32)

今日の聖句:
主は、虐げられている人のために裁きを行い、飢えた人にパンを与える。(詩編146:7)
蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。(2コリント9:10)

「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ることを教えてくださったお方は、私たちの肉体を支えてくださっているお方です。食べ、飲まなければ死んでしまう私たちの肉体の弱さを誰よりもよくご存じです。
主は私たちにパンを与えてくださる。このことを、深くわきまえたいと願います。ご飯を口にするのは、神様とは関係のないことのように考えてしまいがちです。しかし、私たちすべてのものが命をつなぐために神が与えてくださったものです。神の慈しみの前にへりくだって、感謝して「一食」を頂きたい。特に、今のように少しずつ食べ物を手に入れることが大変な時代になってくると、私たちはそのことが深く骨身に染みるのではないでしょうか。
神は、特に虐げられている人や飢えた人のために、深く配慮し、養ってくださるお方です。神様の慈しみの手の長く、力強いことを私たちはよく知って、食において深くへりくだる者として今日の日を生きていきたいと願います。

2025年4月27日の聖句

今週の聖句: 神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに生ける希望を与えてくださいました。(1ペトロ1:3) 今日の聖句: 私は主を愛している。主は私の声、私の願いを聞いてくださる。(詩編116:1) その借りのある者が、主人の前にひざまずき懇願した。「堪忍してください。すべて...