2025年7月15日火曜日

2025年7月14日の聖句

(ソロモンの言葉)見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。(列王記上8:27)
まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:23)

ソロモンが建てた神殿は一体どのような建物だったのでしょう。いろいろな資料を調べると、聖書の記述をもとにして図にしてくれているものもあります。しかし、実際のその建物を見、またそこで礼拝を献げるというのは、絵で見るのとは全然違う体験です。それを直接味わえないのはなんと残念なことか、と思います。
イスラエルの信仰共同体にとって、この神殿は大きな喜びであったに違いないと思います。7年という年月をかけて建築されました。エルサレムの都に神殿が建ち、人々は都に上って神を礼拝する。私たちは、そういう神の民の営みのずっと子孫のところにいます。
ところが、この神殿を神に献げたソロモンは言います。「見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。」まさに、ここにソロモンの実感が込められていたのではないかと思います。大変な思いをして神殿を建築し、それを献げるソロモンであるからこそ、心から感じたに違いない。このような建物に神をお入れすることなどできない。神はもっと偉大で、大きく、果てしないお方。この世界をお造りになった方。そのお方を私が造ったものに収めてしまうだなんて、考えられない!
主イエスさまは「まことの礼拝をする者が、霊と真実をもって父を礼拝するときが来る」とおっしゃいました。これは、主イエス・キリストにあって神を礼拝する、ということであろうと思います。どんなに素晴らしい神殿も礼拝堂もお収めすることのできない偉大なお方を、私たちはキリストを通して礼拝することができる。キリストを見た者は神を見、キリストを信じる者は神を信じているからです。キリストによって神はご自分を私たちに現してくださいました。このお方の御前で、私たちの新しい一日が始まります。

2025年7月14日月曜日

2025年7月14日の聖句

あなたが造った神々はどこにいるのか。災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら。(エレミヤ2:28)
私の愛する人たち、偶像礼拝を避けなさい。(1コリント10:14)

偶像礼拝。それは、私たちの願望が造り出す神への礼拝です。偶像の神は私たちの願いの奴隷です。ですから何らかの目に見える像があるかないかということよりももっと大きな問題があるのではないでしょうか。私たちの主人は私自身や私の願望なのか、あるいはまことの神なのか。それが本当に問われていることだと思います。
それでは、私たちが何らかのことを神に願ったり、助けてくださいと祈ったりするのはいけないことなのでしょうか。自分の願いを神さまに祈ったら偶像礼拝ということになってしまうのでしょうか。
今日の御言葉はこのように語りかけています。「あなたが造った神々はどこにいるのか。災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら。」ここで言われているのは、結局偶像にはあなたを救う力はない、ということではないでしょうか。偶像は人間の造ったものに過ぎない。本当に私たちを救う力があるのは、主なる神さまに他ならない。まことの神こそが私たちを災難から救うことがおできになる。
私たちは、苦しいときや悲しいとき、辛いときに神さまに祈ることが許されています。神さまは私たちの祈りを待っていてくださいます。私たちの神さまは私たちをご自分の目の瞳のように愛してくださっています。だから、私たちはこのお方に祈る。確かに私たちは時に間違ってしまうかもしれないし、神さまを偶像扱いしてしまう過ちも犯してしまうかもしれない。しかし、真の神さまは私たちの願い以上のことをすることがおできになります。私たちが考えている以上に素晴らしい救いを私たちに与えることがおできになる方です。だからそのことを信じ、神を信頼しましょう。安心して祈りましょう。私たちの小さな願いよりもずっと大きな神さまを信頼して、わが身をも神に委ねてしまいましょう。

2025年7月13日日曜日

2025年7月13日の聖句

今週の聖句:
互いに重荷を担いなさい。そうすればキリストの律法を全うすることになります。(ガラテヤ6:2)

今日の聖句:
主よ、夜には心からあなたを慕い求め、朝には私の霊をもってあなたを捜し求めます。(イザヤ26:9)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

ルードルフ・ボーレンというスイスの牧師が教えてくださった祈りを思い起こします。朝、一日の始めに使徒信条をもって祈る。ただ唱えるだけではなく、今日会う人を思い、その一人一人のために神が何をしてくださったかを、使徒信条の言葉に導かれて思い起こして祈る。そして、一日が終わる夜、その日会った人のことを思って再び使徒信条の言葉で祈る。神の祝福の光の中で、今日の出会いを振り返る。
私たちは、朝に祈り、夜に祈ります。神の祝福の光の中に私も置かれているし、今日出会う人・出会った人も置かれています。神は御顔の光を私たち一人ひとりに向けてくださっています。主を呼び、主を捜し求めましょう。必ず、神さまは大いなる祝福をもって私たちに応えてくださいます。キリストの祝福は、朝も夜も、いつでも私たちに向けられています。そのことを信じ、今日の日を平安のうちに歩んでいきましょう。

2025年7月12日土曜日

2025年7月12日の聖句

主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。(イザヤ49:8)
今こそ待望していた時、今こそ救いの日。(2コリント6:2)

今こそ、と今日の新約聖書の御言葉は言います。「今こそ」です。救いの日は、もう私たちのところへ訪れています。今日、この御言葉を聞いたこの日、あなたに救いが訪れました。神の恵みの日、神が私たちを救ってくださる日が今日やってきたのです。
この事実を、あなたは信じているでしょうか?主イエスさまは今日、ここに来ておられて、あなたに向かって手を伸ばしておられます。私たちがイエス様のところへたどり着いたのではありません。私たちの努力の結果、神さまのところへ行くことができたのではないのです。キリストが私たちのところへ来てくださった。だからこそ、今日は待望していた日です。キリストが来てくださったからです。キリストの方から手を伸ばしてくださったから、今日は救いの日です。
まるでイエス様がまだ来られていないかのような自己嫌悪に陥ってはいないでしょうか?まるでキリストの救いがなかったことになってしまったかのような絶望に駆られてはいないでしょうか?キリストがもう既に私を救ってくださいました。だから、大丈夫です。私たちはもはや暗闇ではなく光の中にいます。神さまの手の中に生かされています。安心して、今日の日を生きていきましょう。キリストの限りない恵みが、今日もあなたにありますように。

2025年7月11日金曜日

2025年7月11日の聖句

主よ、あなたの永遠の秩序を想起するとき、私は慰められました。(詩編119:52)
私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたのではない天にある永遠の住まいです。(2コリント5:1)

「あなたの永遠の秩序」と書かれています。「秩序」と翻訳されている言葉ですが、聖書協会共同訳では「裁き」と翻訳されています。ミシュパートという単語で、裁き、正義、命令、法、などといった意味があります。私たちには私たちの裁きや正義があります。日本には日本の法があるし、秩序があります。しかし人間のつくり出す秩序は決して永遠ではありません。
キリスト者の作家の三浦綾子さんが『道ありき』という自伝を書いておられます。三浦綾子さんは満17歳になる前に、小学校の教師になりました。熱心に勤めました。軍国教育の時代です。しかしやがて敗戦を迎える。アメリカ軍が進駐し、これまでの教育は誤りであったとされ、子どもたちに教科書を墨で塗らせた。絶望し、自分にはもう教壇に立つ資格はないと考え、教職を辞しました。
どれほどの絶望であり、どんなに深い虚無・虚脱であったのか、想像を絶します。人間の建てた秩序は、その正義がどれほど絶対的に正しいと思われたものであったとしてもやがて崩れてしまいます。正しいと思っていたものも悪とされるし、悪と軽蔑されていたものが実は正しかったとされることもあります。人間の営みは空しいものです。
しかし、神の建てる秩序は人間のものとは違います。神の正義は永遠です。だから私たちは天を見上げます。そこから来られるキリストを待ち望みます。正義も正しい裁きも、神とその御子とにあると私たちは信じています。私たちは移ろうし、不確かだし、相対的な存在に過ぎない。ですから、神の御前にへりくだりましょう。神を畏れて身をかがめましょう。私たちを虚無や虚脱、悪と罪と死の力から救いだしてくださるキリストを待ち望みましょう。

2025年7月10日木曜日

2025年7月10日の聖句

私の戒めを守り行いなさい。私は主である。(レビ22:31)
私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。(ヨハネ14:23)

私たちは主イエスさまを愛し、主イエスさまの言葉を愛します。私たちはキリストがお命じになったように生きる。少なくとも、そう志します。
ボンヘッファーが『キリストに従う』という本で、私たちの神の恵みに対する態度によって、神の恵みが二つのものに分かれている、という趣旨のことを言っています。一つは「安価な恵み」です。安価な恵みは「罪の義認のことであって、罪人の義認のことではない」。つまり、神の恵みを安価に扱う人は、自分の罪の赦しを既に手に入れてしまっている。神に従おうとせず、自分で自分を救う神の恵みをほしいままにし、そうやって神の恵みを安っぽい、大安売りの、価値のないものにしてしまっている。
しかし、そうではない恵みがある。それが「高価な恵み」です。高価な恵みは「服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである」とボンヘッファーは言います。キリストの命によって支払われたからこそ高価であり、私たちのために神の子が犠牲になったからこそ高価です。高価な恵みは、私たちが自分の十字架を背負ってキリストに従うように求める。そして、「私の軛は負いやすく、わたしのには軽い」と言ってくださるから、「恵み」です。
キリストを愛する私たちは、キリストの言葉を守ります。「私の父はその人を愛され、父と私はその人のところに行き、一緒に住む」とキリストは約束してくださいます。キリストに従い、キリストの示してくださった高価な恵みに生かされる新しい歩みへと出発したい。そのように願います。

2025年7月9日水曜日

2025年7月9日の聖句

かつて、引き抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらすために彼らを見張っていたが、同じように、建て、植えるために彼らを見張るーー主の仰せ。(エレミヤ31:28)
救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。(テトス2:11~12)

今日の旧約聖書ですが、「引き抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらすために彼らを見張っていた」というのは、とても厳しい言葉ですがよく分かります。そもそも「見張る」というのは、そういうことだと思います。何か悪いことがないか、あれば罰を与えたり、報いを受けさせたりする。「見張る」というのは、そういうことだと思います。
ところが、今日の御言葉はかなり不思議なことを言っています。「建て、植えるために彼らを見張る」。建てたり植えたりというのは、つまりは「あなたたちを回復させるため」という意味でしょう。引き抜かれ、壊され、破壊され、滅ぼされ、災いを下された者たち。つまり、神に裁かれた者たち。私はあなたを建て、植えるために見張っているのだ、と主は言われます。「見張る」という言葉がうまくマッチしないように感じてしまいます。
しかし、主なる神さまはまさに私たちを見張っておられる。私たちを救い、私たちに恵みをお与えくださるために、私たちのことをじっと目を凝らしてつぶさにご覧になっている。神が私たちを新しくするために、私たちに目を向けてくださっているのです。「救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。」敬虔な者として、神は私たちを新しく生かしてくださいます。主の恵み深いまなざしの中で、今日の日を生きていきましょう。

2025年7月8日火曜日

2025年7月8日の聖句

神は深遠なこと、隠されていることを明らかにされる。(ダニエル2:22)
(イエスの祈り)正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。(ヨハネ17:25)

「世はあなたを知りません」と主イエスが祈っておられます。そうなのです。主イエスがおっしゃるとおり、私たちは神を知りません。私たち世の知恵は、神を知ることができません。「神」と私たちが思っているものは、そう思い込んでいるだけでまことの神でも何でもない。それは、世の中のいろいろな宗教とか神話とか、そういうものには留まりません。哲学や科学技術に代表されるような人間の知恵の粋もそうです。あるいは、キリスト教という宗教だって例外ではない。私たち人間の営みがまことの神に到達することなんて、絶対にできません。「正しい父よ、世はあなたを知りません」。
しかし、主イエスだけはそうではありません。「私はあなたを知っており」。主イエスはまことの神を知っておられる。なぜなら、このお方はまことの神ご自身に遣わされて、私たちのところへ来てくださったからです。だから、まことの神について、私たちはただイエス・キリストによってだけ知ることができる。このお方の言葉、このお方のなさったこと、このお方の存在そのもの。キリストこそまことの神を私たちに示す、ただ一つの神の言葉です。
私たちはまことの神を知らないし、知ることはできないし、こちらから到達することは絶対にできません。しかし、神さまの側から私たちにご自身を示してくださいます。「神は深遠なこと、隠されていることを明らかにされる。」主イエス・キリストを通して。キリストとキリストを証しする御言葉に耳を傾けましょう。ここに神の御心がある。私たちはそのことを信じ、感謝しつつ、へりくだってキリストに耳を傾けましょう。

2025年7月7日月曜日

2025年7月7日の聖句

私たちが低くされていたとき、抑圧されていたとき、主は私たちのことを思い浮かべてくださった。なぜならその慈しみは永遠だからです。(詩編136:23)
私はこの福音のための使者として鎖につながれていますが、私が口を開くときに言葉が与えられ、堂々と福音の秘儀を知らせることができるように、私のために祈ってください。(エフェソ6:19~20)

エフェソの信徒への手紙は使徒パウロの手紙ですが、獄中書簡と呼ばれる手紙の一つで、パウロが牢獄に捕らわれているときにしたためられたものです。「私はこの福音のための使者として鎖につながれています」。しかしそのようなときであってもパウロが願っていたのはただ一つのことでした。「私が口を開くときに言葉が与えられ、堂々と福音の秘儀を知らせることができるように、私のために祈ってください。」例え牢獄にいようとも、他のどこにいようとも、パウロは福音の秘儀を知らせることができるように、主イエス・キリストの福音を証しする者となれるようにという一つのことを願い、そのために生きていました。
キリストの福音。それは「私たちが低くされていたとき、抑圧されていたとき、主は私たちのことを思い浮かべてくださった。なぜならその慈しみは永遠だからです」とあるとおり、私たちがどのような状態にあり、私たちがどのような者であったとしても私たちへの慈しみを示してくださる神の愛のことです。私たちを生かしてくださっている神の愛です。
パウロと同じように、私たちも神の愛によって生かされています。この福音を証しする証し人として、神は私たちをこの世界へ遣わしておられます。私たちがどこにいても、何をしていても、強い日にも弱い日にも、キリストの愛が私たちを生かしてくださっている。その一事に生かされ、またこの喜びを証しする一日でありますように。

2025年7月6日日曜日

2025年7月6日の聖句

今週の聖句:
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

今日の聖句:
悪しき者はその道を捨て、自らの思いを捨てよ。主に立ち帰れ。そうすれば主は寛大に赦してくださる。(イザヤ55:7)
神の和解を受け入れなさい。(2コリント5:20)

NHKの朝ドラで「あんぱん」という作品を放映しています。少し前まで太平洋戦争の時代を描いていました。戦争について、日本で制作する他の多くの作品と少し違う描写がありました。主人公はやなせたかしさんをモデルとした人物ですが、この人が旧日本陸軍の伍長として中国で体験した日々が描かれていました。太平洋戦争が話題になる多くの作品では、空襲や原爆などの日本の被害が中心になります。しかし「あんぱん」では日本の加害について触れていました。兵站が途絶えて飢えた日本兵が中国人から食べ物を略奪していました。
戦争は、本当に複雑なできごとです。どこかに線を引いて加害者と被害者を完全に区別してみせることは非常に難しいです。日本の一般市民にも、被害者である部分と加害者である部分が混在しています。それは恐らく戦争だけではなく、他のいろいろな軋轢でも同じなのだと思います。いろいろな場面で、私たちは加害者でもあり、被害者でもある。ある人に対しては強者であり、別の人に対しては弱者になる。
「神の和解を受け入れなさい」と聖書は言います。聖書が私たちに語りかける福音は、和解の福音です。神は、私たちの敵です。私たちは神を憎んでいます。だから、私たちの世界は壊れ、私たちは憎み合い、分断やヘイトがこんなにあからさまな世界になってしまっている。ところが神ご自身が私たちに和解の手を伸ばしてくださいました。私たち自身にはもうどうすることもできません。誰が加害者で誰が被害者なのかさえ分からない。「強くて悪い人」と「弱くてかわいそうな人」がいるのではなく、皆が誰かを憎み、他の人を罵っている。この世界では「和解」が絵空事になっています。そんな私たちに、神が和解の手を伸ばしてくださった。神が伸ばしてくださった和解の手、それはイエス・キリストです。
主のもとに立ち返りましょう。自分の道を離れて、主のもとに帰りましょう。必ず主は赦し、受け入れてくださる。私たちは神が伸ばしてくださった和解の手を受け入れるとき、神がどんなに私を深く愛し、大きな赦しの手で包んでくださっているかを知るのです。そして、まさにここで私たちの世界の和解が始まるのです。

2025年7月5日土曜日

2025年7月5日の聖句

ご覧ください、主よ。
私は本当に苦しいのです。
私のはらわたは痛み
心は私の内で動転しています。
私が逆らい続けたからです。(哀歌1:20)
(ある女の言葉)「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(ヨハネ4:29)

日本語の語感では、心の座は胸です。「胸が痛む」と言えば、多くの場合は心臓や肺のことではなく「心が痛む」という意味になります。ヘブライ人たちは、心の座を「はらわた」と考えていたようです。「はらわたが痛む」と言えば「心が痛む」ということを意味します。しかも、今日の御言葉の「はらわたは痛み」は、通常ではないほどの大きな痛みであったようです。「私のはらわたは痛み、心は私の内で動転しています。」心が動転してしまうほどのはらわたの痛み。腸がねじれてちぎれるほどの心の痛み。
なぜ、そこまで深く痛んでいるのか。哀歌はユダの国が戦争で敗れて焦土となり、民は捕囚となってしまった時代の言葉です。文字通りに国が崩壊し、何もかもがメチャクチャになってしまいました。虚脱の時代です。しかし、この苦しみの原因を考えるならば、「私が逆らい続けたからです」と告白しているとおり、私たちの罪が生み出した実りだとしか言いようがない。自分たちの誤った行いがこのような悲惨を招いてしまった。この苦しさから、主よどうか憐れんで救ってください。そう祈るしかないのです。
今日の新約の御言葉で「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」とあるとおり、私たちを本当に救いうるのは、私たちのことを極みまで知り尽くしておられるお方、しかもその上で憐れみをもって救おうと言ってくださるお方だけです。私たちの行いや隠しておきたいものが露わになれば、救われようがない。それでもなお救う意志を貫いてくださる神だけが私たちを救うことがおできになる。主イエス・キリストは、そういう神でいてくださるのです。

2025年7月4日金曜日

2025年7月4日の聖句

あなたは私の隠れ場、私の盾。
あなたの言葉を待ち望みます。(詩編119:114)
私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることである。(ヨハネ6:40)

「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」、それが主イエス・キリストの父なる神様の御心だ、と主イエスは教えてくださいます。「皆」と言っておられます。全員です。誰一人、分け隔てなく、すべての人に永遠の命を得させることを、神さまは願っていてくださるのです。
主イエスのおっしゃるこの「皆」を狭めてしまわないように、よく注意しましょう。私たちの思っているところよりも、父なる神様の御心はずっと広いのです。私たちはすぐに条件付けをしてしまいます。信仰深いとか、立派な祈りをしているとか、周囲から評価され褒められているとか。もしかしたら、信じるということさえも、何かの意味で立派な行いの一つであるかのようにして、神さまに突きつける条件にしてしまうことさえあるかもしれません。裏返すと「信じる私を神さまはどうして知らんふりするのか」ということにだってなりかねないのです。
父なる神様の御心は、主イエス・キリストにあってすべての人に永遠の命をお与えになること。そして、キリストがそんな私たちを終わりの日に復活させること。私たちの命を超えた救いの希望がある。あなたのために、ここに備えられている。キリストは私たちにそう語りかけてくださっています。この救いの約束の中で、私たちの一日も始まります。

2025年7月3日木曜日

2025年7月3日の聖句

人間の心は自分の道のことに思いを巡らすが、主がその一歩を確かなものとする。(箴言16:9)
言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)

神さまを信じる私たちにとって、自分の生き方や普段していることが本当に神さまの御心に適っているのか、自分が神さまの道を歩み得ているのか、ということは大きな問題ではないでしょうか。神さまのお名前を口にしながら自分勝手な主張や欲求を正当化しているということが私たちは起こりうるし、むしろ自分を省みればそのようなことばかりだと言わざるを得ないのが現実ではないでしょうか。困ったことに、不信仰はしばしば信仰深い顔をします。周りの人を騙すだけではなく、自分のことも騙してしまう。そして、神さまを騙そうとしてしまう。私たちにはそんな厄介な性質が染みついているのではないでしょうか。
「言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。」ここに「主イエスの名によって行い」と書いてあります。主イエスの名によって行うとはどういうことなのか?イエス様のお名前をむやみに濫用するとか、それを騙るということではないでしょう。むしろ、主イエスのようにへりくだるということではないでしょうか。主イエスが私にしてくださったように隣人のための損を引き受ける、ということではないでしょうか。キリストをまねる道こそ、神さまの道ではないでしょうか。
そこには父なる神への感謝がある、と使徒パウロは言います。損をしながら感謝をするというのはいかにも奇妙に感じますが、神を信じるとはそういうことなのだと思います。なぜなら、それこそキリストが私のためにしてくださったことだからです。キリストが私のためにしてくださった愛をいつも心に刻み、それに生かされ、キリストに似た者にならせてくださいと祈り、今日の日を歩んでいきたいと願います。

2025年7月2日水曜日

2025年7月2日の聖句

主は高くおられ、低くされた者を顧みる。遠くから、高慢な者を見抜かれる。(詩編138:6)
(ある金持ちの言葉)「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。」(ルカ12:19~20)

主イエスの譬え話です。ある金持ちの畑が豊作だったので、この人は作物をしまうためにこれまでよりも大きな倉を建てることを計画して、独りごちました。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」主イエスは、この男は「愚か者」だとおっしゃっています。しかし、考えてみれば私たちの社会はこの男の考えたとおりに動いています。そもそも蓄えがないと私たちはたちまち困ってしまうでしょう。むしろ蓄えておかない方が愚かだ、と社会では考えられていると思います。そうだとしたら、主イエスはこの男の一体何が愚かだとおっしゃっているのでしょうか。
この話をなさる前に、主イエスはおっしゃっています。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」主イエスは、この男は貪欲だとおっしゃっています。そして、その貪欲によって自分の命を支えようと考えた。ここにこの男と私たちの問題があるのではないでしょうか。神が私たちの魂を取り上げるのに、財産の多寡は関わりがない。ちょっとふさわしくない表現ではありますが、「地獄の沙汰も金次第」ではないのです。
詩編は言っています。「主は高くおられ、低くされた者を顧みる。遠くから、高慢な者を見抜かれる。」私たちに必要なのは、造られたものとしてのへりくだりです。自分で自分の命をどうすることもできない者としての謙遜です。自分の持っているもの(それが財産であろうと努力であろうと、他の何であろうと)によって命を左右することができるという高慢な思い込みを捨てて、神の前にへりくだることが大切ではないでしょうか。私たちの神さまは、私たちの髪の毛一本でさえも憶えていてくださるほどに私たちの命に関心を持ち、ご自身が私たちのために心配してくださるお方なのです。

2025年7月1日火曜日

2025年7月1日の聖句

7月の聖句:
何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ4:6)

今日の聖句:
たとえこの身も魂も衰えようとも、そうであっても、神よ、あなたは常に私の心を慰め、私の一部。(詩編73:26)
(先見者ヨハネの記録)聖なる方、真実な方がこう言われる。「私はあなたの行いを知っている。見よ、私はあなたの前に門を開いておいた。誰もこれを閉じることはできない。」(黙示録3:7,8)

私たちは、身も魂も衰え、やがて滅びるべき存在です。私たちは限りあるもの、造られたもの、衰え、朽ちていきます。しかし「そうであっても」と聖書は言います。私たちは身も魂も衰え、滅びるし、やがて忘れ去られるし、弱い存在です。しかし「そうであっても」神が私の心を常に慰めてくださる。神が私を覚えていてくださる。それどころか、神は「私の一部」と信じることさえも許されているのです。驚くべき言葉です。神さまは、私たちの一部となるほどに私たちに深く入り込んでくださって、私たちと共にいてくださいます。この滅ぶべき私たちに、朽ちていく私たちに、永遠なるお方が伴ってくださるのです。
ここでヨハネが幻の中で聞き取っているのは、主イエスの御声です。主は言ってくださいます。「私はあなたの行いを知っている。見よ、私はあなたの前に門を開いておいた。誰もこれを閉じることはできない。」キリストが開いてくださった門というのは、天の国の門と捉えてよいのではないかと思います。キリストが私たちのために天の国を開いてくださっている。罪の中で朽ちて死んでいく私たちのために、天の国の門を開く権能を持っておられる方が戸を開いてくださっている。
聖書が見つめているこの事実に、私たちの生と死の秘密があるのです。

2025年7月14日の聖句

(ソロモンの言葉)見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。(列王記上8:27) まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:23) ソロモンが建てた神殿は一体どのような建物だったのでしょ...