2025年2月12日水曜日

2025年2月12日の聖句

小さな者から大きな者に至るまで皆、暴利を貪り、
預言者から司祭に至るまで皆、虚偽をなす。
彼らは、わが民の傷を安易に癒やして、「平和、平和」と言うが、平和などはない。(エレミヤ6:13~14)
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。(ローマ12:9)

本当に、心に突き刺さるような痛い言葉です。何よりも、わたしは一人の牧師としてそのことを考えないわけにはいきません。安易ではない癒やし、まことの平和。それは、私たちにただイエス・キリストの十字架と復活によって与えられました。ですから私たちはキリストのみもとにしかない癒やし、キリストにしか与えることができない平和によって救われました。それなのに、十字架にかけられたキリストではないところから安易に持って来たまがい物や、主イエスの復活とは似ても似つかない偽物を福音としてしまう誘惑にいつも晒されています。
「愛には偽りがあってはなりません」と書かれています。偽りのない愛は、キリスト以外にはありません。何度でも繰り返し、新しい思いをもって、キリストの前にへりくだらなければなりません。キリストの憐れみを願い求めます。

2025年2月10日月曜日

2025年2月10日の聖句

力と洞察は神と共にあり、惑う者も惑わす者も神のものである。(ヨブ記12:16)
神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。(1テモテ2:4)

ここのところ、あるテレビ局の醜聞で世間が沸き立っています。テレビからCMが引き上げられるという前代未聞の事態になりました。昭和天皇が亡くなった時と東日本大震災の時には全局でCMが自粛されていましたが、一局だけがこのような事態になるというのは、なかったことです。いろいろなテレビ番組で識者と呼ばれる人やコメンテーターがこの問題についての意見を述べています。耳に入るとうんざりしてしまいます。神を畏れることがない力と洞察は、人間を化け物にします。女性を食い物にしてきた大企業、ジャーナリズムの責任を普段から果たしていないために聞くべき事を聞けないでいる他社の記者、目立ちたいだけのネットメディアの罵声、いろいろな有象無象がいるし、わたしもどこかでそんな状況を楽しんでしまっているのかもしれません。神様はこういう事態をどういうお気持ちでご覧になっているのでしょうか。
「神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。」神様はすべての人が救われることを望んでおられます。主イエス・キリストを信じ、キリストの救いをいただくと、私たちは真理を認識するようになる。この「真理」は、世の中の秘密を暴露するとか、世間の仕組みを知るとかではありません。もっと根本的な真理です。唯一の神がおられ、このお方がこの世界を造り、保ち、共に歩み、支配しておられる。そういうことではないでしょうか。私たちは神を畏れて生き、神を畏れて社会を形成しなければならない。ですから私たちの倫理の基準は、神への畏れです。神を畏れる者として、あなたは今日という日をどのように生きるのか。私たちは聖書からそのことを問われているのです。

2025年2月9日日曜日

2025年2月9日の聖句

今週の聖句:
来て、神の御業を仰げ、
人の子らになされた恐るべき御業を。(詩編65:5)

今日の聖句:
人の子よ、わたしがあなたに語る言葉をすべて心に受け入れ、耳で聞きなさい。(エゼキエル3:10)
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。(マタイ13:23)

神さまの御言葉、福音の言葉。ひとたび語られれば、必ず出来事を起こします。神が御言葉を語りかけてくださるなら、必ず新しいこと、すばらしいことが始まります。私たちはそれを信じて、神の御言葉を聞き、それに従う。
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
私たちに主がお求めなのは、主が語りかけてくださった御言葉を聞き、それに従い、御言葉を生きることです。必ず素晴らしい実りがある、必ず思ってもみなかったほどの大きな収穫がある。キリストはそう約束してくださいます。
今日は主の日です。主イエス・キリストの御言葉に耳を傾けましょう。主に従う新しい一週間に旅立ちましょう。起きている時にも寝ている時にも、私たちは主に従うことができます。「主よ」とひと言お呼びして祈る時、主ご自身が私たちを新しくしてくださいます。キリストの福音の御言葉によって。キリストの御前に、私たちの新しい時を刻んでいきましょう。

2025年2月8日土曜日

2025年2月8日の聖句

恵みと憐れみに富む主は、ご自身の驚くべき数々の御業について記憶に留められた。(詩編111:4)
私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。(1コリント10:16)

今日の旧約は心に残るすてきな御言葉です。主なる神様は、ご自身の驚くべき数々の御業を憶えていてくださいます。ご自分の恵みと慈しみをお忘れになることなく、それを貫いてくださる。ありがたいことです。神様は、決して「そんなことあったっけ?」とはおっしゃいません。私たちのためにこれまで示してきてくださった慈しみについて「記憶にない」とはおっしゃらないのです。
ですから、私たちも神様がしてくださったことを記憶に留め、何度も思い返し、神の恵みの御業をほめたたえます。今日の新約は聖餐の式文の中で読んでいる御言葉です。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。」私たちは聖餐を祝う度にキリストの血と交わります。キリストのお体と交わります。あのパンを食べ、あの杯から飲む度に、私たちはキリストの血と肉と一つになる神秘にあずかります。
私たちは本当に忘れっぽいですから、神様の恵みをいつも心に刻みつけることがなかなかできません。良い時は良いのですが、ちょっと厭なことや悪いことが起こると、すぐに神の恵みを忘れてしまいます。しかし神はいつでもキリストの肉を裂き、血を流して、私たちのために与え尽くしてくださっている。神ご自身がそのことを憶えていてくださいます。ですから私たちも神の恵みを記憶に留めるようにと、キリストの食卓に招いてくださっているのです。

2025年2月7日金曜日

2025年2月7日の聖句

神よ、あなたはわたしの神。
わたしはあなたを捜し求め、
わたしの魂はあなたを渇き求めます。(詩編63:2)
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。(黙示録22:17)

私たちの魂が渇いていることを、聖書は知っています。私たち以上に知っています。冬場はとても寒いので、喉の渇きを自覚しにくいです。しかし乾燥していますし、実は気付かないところで渇いている。しっかり水分を補給することが大事なようです。増して魂の渇きは自覚しにくい。私たちの気付かぬところで私たちの魂がカラカラに干からびてしまいます。
そうであるからこそ、神様は私たちにこのような詩編の祈りの言葉をプレゼントしてくださったのでしょう。私たちがこの言葉を自分自身の祈りとするために。「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。」
私たちの渇きは、神を捜し求めることによってでしか満たされません。キリストの下さる生ける泉の水によってでしか、私たちの渇きは本当には癒やされない。私たちの周りには渇きをごまかす清涼飲料水のような安易な癒やしがたくさんあります。一時の憂さを晴らすことはできても、本当のところ、神以外の何ものにも癒やすことなんてできないのです。
主イエス・キリストが私たちを呼んでくださっています。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」ありがたい言葉です。キリストの招きに応えて、命の水をいただくためにキリストの御許に共に参りましょう。

2025年2月6日木曜日

2025年2月6日の聖句

(主の言葉)「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。」(創世記8:21)
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)

今日の旧約聖書の御言葉はノアの箱舟の出来事の最後に主なる神様がおっしゃった御言葉です。「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。」人が心に計ることは悪いことばかり。しかも、大人になって悪くなったというのではなく、幼い時から悪いことに染まりきっている。だから、人のゆえに地を呪うことはもうしない。つまり、洪水をもって滅ぼすことはしない。ここでの「洪水」は死や滅びの象徴です。人々を滅ぼし尽くしてしまうことはもう二度となさらない、と神はご自身に誓われたのです。その理由は人が心に計ることが幼い頃から悪いことばかりだから、というのです。
主なる神様はその御心によって、御子イエス様を私たちに与えてくださいました。御子が私たちの世に遣われたのは、私たちが少しは見所があるからとか、ノアの時代に比べてちょっとは改善したからではありません。ノアの時代から今に至るまで、どうしようもなく駄目で、何のよいところもなく、これから善くなる兆しもないからです。このままでは私たちが自滅し、滅びるしかないからです。そんな私たちの世を神が愛してくださって、御子を遣わしてくださいました。しかも、私たちを裁くためではなく、救うために。ここに愛があります。私たちのところへ遣わしてくださった御子に神の限りない愛があるのです。この愛は、あなたのための限りない愛です。

2025年2月5日水曜日

2025年2月5日の聖句

(神の僕の言葉)私は打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。辱めと唾から私は顔を隠さなかった。(イザヤ書50:6)
(イエスの言葉)友のために命を捨てる者ほど、大きな愛をもつ者はいない。(ヨハネ15:13)

私は鞭で打たれたことはありませんが、厭な目に遭ったり侮辱されたりしたことは人並みにはあります。しかし、今日の旧約の御言葉が伝える神の僕は、単に厭な目に遭ったというのではありません。「私は打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。」打とうとする者に自分の背中を差し出した。髭を抜こうとする者に頬を差し出した。意図せず侮辱されたとか、無理強いされて厭な目に遭わされたとか、抵抗したのに力で負かされたというのではありません。背中を差し出し、頬を向けた。「辱めと唾から私は顔を隠さなかった。」屈辱や人々の憎しみを前に、自らそこに進み出、それを敢えて享受した、というのです。驚くべき言葉です。
主イエス・キリストがおっしゃる「友のために命を捨てる」というのは、そういうことです。たまたま人の犠牲になったというのではない。巡り合わせが悪く身代わりになってしまった、というのではないのです。主イエス・キリストは御自らそこに進み出、私たちを愛し、しかも愛の極みを貫いてくださって、私たちのために命を捨ててくださいました。キリストの苦しみは、私たちへの愛のための苦しみです。
今日私たちが生きるこの命は、キリストの差し出してくださった命によって与えられたものです。私たちはキリストの究極の愛によって今日も生かされています。辱めと唾を私たちのために顔を隠さずにお受けくださったお方こそ、私たちの誉れです。

2025年2月4日火曜日

2025年2月4日の聖句

私の言葉は火のようではないかーー主の仰せ。
また、岩を打ち砕く槌のようではないか。(エレミヤ23:29)
神の言葉は生きていて、力があり、いかなる諸刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。(ヘブライ4:12)

関節と骨髄を切り離すまでに刺し通す。すごい切れ味です。鋭い切れ味の諸刃の剣のように、神の言葉は私たちの思いや考えを切り分ける。なまくらな刃ではそういうわけにいきません。手入れしていない包丁では肉を切ることもままならない。しかし神の言葉は関節と骨髄ですら切り離す切れ味だといいます。魂と霊も心の思いや考えを腑分けし、見分けることができる。神の言葉を聞くとき、私たちは神様ご自身に問われるのです。
神の言葉は、火のように私たちを裁きます。岩を打ち砕く槌のように私たちを砕きます。神の言葉は、私たちの心の中から湧き上がってきたり私たちの願望が生み出した言葉ではないからです。私たちとは異質な言葉、聖なる言葉だからです。
聖書を読んでいても、よく分からないことがあります。何でこんなことが書いてあるのか?ちょっとおかしいんじゃないか?例えば、この前の日曜日には、おとめマリアが身ごもって男の子を産むと天使が告げたというところをご一緒に読みました。おとめが身ごもるなんて、科学的に考えれば全くあり得ないことです。しかし私たちの常識ではあり得ないところで神様の御業が始まっています。神の子でいらっしゃるお方が一人のおとめからお生まれになった。一人の人間になって私たちのところに来てくださった。聖書を読んで異質に感じるところには必ず宝が埋まっています。神さまの御言葉であり、神様がなさることですから、私たちに異質であるのは当然のことです。神は御言葉によって私たちを裁くことによって、私たちが想像もしなかった恵みの世界へ私たちを連れ出してくださるのです。
御言葉に聞きましょう。聖なるお方の聖なる御言葉に耳を傾けましょう。異質な言葉の世界、聖なる言葉の世界に、神は今日あなたを連れ出してくださっているのです。

2025年2月3日月曜日

2025年2月3日の聖句

御手が私たちの上にあって、神は私たちを救いだしてくださった。(エズラ8:31)
(パウロの手紙)このような迫害に私は耐え、そのすべてから主は私を助け出してくださったのです。(テモテ二3:11)

今日の新約の御言葉は「このような迫害」と始まっています。「このような」というのは、どのような迫害なのでしょうか。そう思って直前の言葉を読んでみると、こう書かれています。「アンティオキアやイコニオン、リストラで私に降りかかった迫害や苦難・・・。」つまり、パウロは「このような迫害」と言っていますが、具体的にどのような迫害を受け、どんなに酷い目に遭ったのかということについては書いてないのです。ちょっと不思議だと思います。私だったら、どんな苦労をしたのか細かく書いて、相手の気をひこうとすると思います。しかし、パウロはそのようなことを書かない。
なぜでしょう。手紙の宛先になっているテモテがパウロの事情をよく知っていたからとも考えられます。しかしそれだけではないと思います。パウロの興味は、ちょっと違うところにあるのではないでしょうか。「このような迫害に私は耐え、そのすべてから主は私を助け出してくださったのです。」パウロは自分が耐えた迫害がどんなに厳しく辛いものだったのかということよりも、主がそこから私を助け出してくださったということに私たちの目を向けさせようとしているのではないでしょうか。神が私を助け、働いてくださった!
「御手が私たちの上にあって、神は私たちを救いだしてくださった。」パウロも、この言葉に「アーメン」と応えるでしょう。私たちも同じです。私たちも神の助けによって今日生きています。私たちを御心に留めてくださり、私たちを救うために今日も生きて働いてくださっている神に、栄光と誉れがありますように!

2025年2月2日日曜日

2025年2月2日の聖句

今週の聖句:
あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:2)

今日の聖句:
イスラエルの人々は主の命によって進み、主の命によって宿営した。(民数記9:18)
信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになっている土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。(ヘブライ11:8)

私たちは神の民です。この世という荒野を旅する神の民。ですから私たちは進むのにも主のご命令に従い、宿営するにも主のご命令に従います。主が私たちを導いてくださる。そのことを信じ、主のご命令に従ってこの世界で生きていきます。
主のご命令。主は主イエス・キリストを通して語りかけてくださると私たちは信じています。キリストのお姿、その歩み、御言葉。それら一つひとつが私たちへの神の語りかけです。キリストの聖なる愛が私たちの道を示し、私たちを神の民として練り上げてくださると信じます。
「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになっている土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。」信仰によって、と聖書は書きます。アブラハムの旅は信仰による旅だった。それだけです。それ以外には何もないし、ほかには何も必要ない。人間として私たちが欲する保証も、安心や安全の確証も、アブラハムは持ちません。信仰によって神のご命令に従った。ここに、私たちに先立つ信仰者がいます。私たちも同じ旅路に生きています。

2025年2月1日土曜日

2025年2月1日の聖句

2月の聖句:
あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。(詩編16:11)

今日の聖句:
地の塵となっている眠る人々の中から、多くの者が目覚める。ある者は永遠の命へと、またある者はそしりと永遠のとがめへと。(ダニエル12:2)
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。(ローマ14:9)

キリストは十字架にかけられて死に、陰府に降りました。「陰府」は、神に棄てられた者の行くべき場所です。十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」とキリストが叫ばれたとき、そこに陰府の深い穴が開いていたのです。
しかしキリストは死者の中から復活させられました。神に棄てられた方、陰府の底に降りて行かれた方を神がご自分の栄光の座に引き上げられたのです。
神に棄てられたこのお方こそ、死んだ者の主です。神に復活させられたこのお方こそ、生きている者の主です。キリストという、主であるお方が私たちを生きているときにも死ぬときにも治めておられます。
聖書が告げるこの事実に対する恐れを、私たちは決して失ってはならないのだと思います。私たちは、神様のことをなめてはいないでしょうか?私たちの生きるのも死ぬのも支配しておられる方だと骨身に染みてわきまえているでしょうか?もしも神を恐れることを忘れてしまっているのだとしたら、キリストの十字架と復活にひれ伏す信仰を新たにして頂かなくてはならないのではないでしょうか。私たちの生も死も、偶然や私たちの思いやこの世の力関係など、その他この類いのものが支配しているのではない。キリストを私たちにくださった神が御支配くださり、いのちの道へと導いてくださっているのです。

2025年2月12日の聖句

小さな者から大きな者に至るまで皆、暴利を貪り、 預言者から司祭に至るまで皆、虚偽をなす。 彼らは、わが民の傷を安易に癒やして、「平和、平和」と言うが、平和などはない。(エレミヤ6:13~14) 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。(ローマ12:...