2016年4月10日日曜日

サムエル記下第7章1-29節「主の作られる神の家」

早天祈祷会で「日々の聖句」(ローズンゲン)を用いています。土曜日に指定された聖書箇所にはどちらも「共に・一緒に」という言葉がありました。礼拝は唯一、人間が利害関係を抜きにして〈共に〉集まることのできる場所だと思います。人間的には、「礼拝して何の意味があるの?」「何の得もないじゃないか…」と言いたくなるような時間であるかもしれません。ですが、神さまの目からすれば十分に価値のある時間なのです。たとえ、礼拝に行くのが億劫だという気持ちであっても、いやそういう時こそ、「あなたが来てくれてありがとう」と神さまは思われるのです。
 本日の説教題を「主の作られる神の家」としました。不安の立ち込める時代にあって、教会はどのような歩みをしていかなければならないのか。さまざまな問題を感じつつも、見て見ぬふりをしながら毎日を過ごしていることがあるかもしれません。しかし、そんなときに聖書が言う言葉は、「静かにしていなさい」というものです。「一生懸命祈れ」「たくさん奉仕をしろ」などとは決して言わない。むしろ逆。「静かにしていなさい」と聖書は語ります。これは目の前を海、背後を敵陣にしたときのモーセの言葉です。
 神さまにはすでに計画があります。本日の聖書箇所、サムエル記下第7章では、「主があなたのために家を興す」(7:11)と書かれています。主イエス・キリストも同様に「わたしはわたしの教会を建てる」(マタイ16章)と言われます。教会・神の家を建てるのは、ほかの誰でもなく主なのです。それゆえに、私たちはこの約束を期待して待ち続ける者なのです。私たちの頑張りが少ないから、努力が足りないから、教会が建たないなどということは決してない。すべての御計画は主にある。
 ダビデはこの約束を聞き、祈りました。長い祈りでしたが、特にご一緒に注目したいのは、「御言葉の通りになってください」(7:25)という祈り。そして、「それゆえ、僕(しもべ)はこの祈りをささげる勇気を得ました」(7:27)という箇所です。私たち信仰者は、神の言葉、神の約束があってはじめて祈れる者になれる。もし御言葉が無ければ祈る勇気すらないのです。どんな願い事をしても、叶うかどうかわからない。期待して残念な結果を見るのであれば、はじめから期待しない方がましだと心のどこかで思ってしまう。
 ですから、私たちは常に、「主が教会を建ててくださる」この約束の御言葉をいつも覚えながら祈る者になりたいのです。たとえ不安が目の前にあっても、主の約束は変わりません。御言葉に根差して祈り続けましょう。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...