貧しい人が(主に)永遠に忘れられ、苦しむ人の希望が滅びることは決してない。(詩編9:19)
イエスは言われた。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)
「貧しい人々は、幸いである」と主イエス・キリストは宣言なさいます。キリスト以外の一体誰にそのようなことを言えるのでしょうか。この世は、一方では貧しい人を放置します。「貧困は必要悪」と言わんばかりに、富む人々に犠牲を強いられているし、誰もそれを是正しようとはしません。あるいは逆に、貧しさこそが不幸として徹底的に否定し、この社会のシステムを変えることこそが正義とします。しかし社会システムを変えても、そこに生きている人間が変わらなければ結局同じでしょう。もちろん、この世にはびこる不正義を放置することは許されないことです。
イエスは言われた。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)
「貧しい人々は、幸いである」と主イエス・キリストは宣言なさいます。キリスト以外の一体誰にそのようなことを言えるのでしょうか。この世は、一方では貧しい人を放置します。「貧困は必要悪」と言わんばかりに、富む人々に犠牲を強いられているし、誰もそれを是正しようとはしません。あるいは逆に、貧しさこそが不幸として徹底的に否定し、この社会のシステムを変えることこそが正義とします。しかし社会システムを変えても、そこに生きている人間が変わらなければ結局同じでしょう。もちろん、この世にはびこる不正義を放置することは許されないことです。
主イエスは驚くべきことに「貧しい人々は、幸いである」と言われるのです。その大前提は、主ご自身が神の御分でありながら貧しくなられたということに違いありません。主イエスはご自身が誰よりも貧しくなって、貧しい人の一人になられて、そこに神の国を宣言した。貧しい人にこそ神の国が到来したと、貧しい人の真ん中で宣言なさったのです。だから、「貧しい人々は、幸いである」というのは、主イエスにしか口にすることのできない言葉です。
主なる神さまは貧しい人を心にかけ、苦しむ人の希望になってくださる方です。私たちが神と信じ、従おうと願っている方は、この世から忘れられた人々の味方でいらっしゃるお方です。この神のあり方が、私たちの生き方を定めるのです。私たちは、どこに立つのでしょうか?
主なる神さまは貧しい人を心にかけ、苦しむ人の希望になってくださる方です。私たちが神と信じ、従おうと願っている方は、この世から忘れられた人々の味方でいらっしゃるお方です。この神のあり方が、私たちの生き方を定めるのです。私たちは、どこに立つのでしょうか?