2017年7月2日日曜日
ルカによる福音書第4章16から30節「危機を生む宣言」
主イエス・キリストが、安息日になるといつものように会堂に入り、聖書を朗読なさいます。これだけでもう慰め深い言葉です。私たちは今主がそうなさったのと同じように、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会堂に集まって礼拝を献げています。今日、ここに来られない仲間もいます。この礼拝は彼らのためのものでもあります。だから、私たちは「教会の祈り」という執り成しの祈りをいたします。それは、この主の日の礼拝が大切だからです。私たちは何のために集まるのか。主イエスが語りかけてくださる御言葉に聞くためです。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣われたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」そして、主は言われます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。このキリストの福音を宣言する御言葉を聴くために、私たちは今朝礼拝に集まってきました。私たちに自由解放をもたらす主の恵みの年は、キリストがそう宣言なさったところで始まるからです。そして、主の日の礼拝は、この福音宣言が響いている場所であり、時間です。今朝の説教題を「危機を生む宣言」としました。ちょっと物騒な題です。何でそのようなことを考えたのか。主イエスの宣言を聞いたイエスの故郷ナザレの人々は驚きました。今日の最後のところにこのように報告されている。「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」イエスの話を聞いて、イエスを殺そうとした。但し、危機というのはイエスが危ないという意味ではありません。ここでの「危機」は「分かれ目」という意味です。イエスの言葉を聞く者は、決断を迫られます。イエスの言葉を聞き、これを信じるのか。それとも、それを受け入れずにイエスを殺すのか。なぜ、彼らはイエスを殺そうとしたのか。イエスはご自分の言葉を聞いて人々が感心したのを見て、彼らに、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うに違いないと指摘しながら、要はこのナザレ村では何もしないと言われた。それを聞いて、人々はイエスを殺そうとしたのです。どうして、そこまで人々はイエスを憎んだのか。ある人が指摘していました。それは、私たちの持っている性質に由来している。その性質とは、我々が是認できないすべての人々に神の恵みが与えられることに対して憤慨する性質だ、と。イエスは主の恵みの年の到来を、すべての人に宣言なさいます。そこには私が好きではない人、私を憎んでいる人、何となく気にくわない人も入っているのです。イエスの愛の広がりは、私の心の中に何が潜んでいるのかを明らかにする私にとっての危機です。私たちはどうしても枠を作ります。そして、人を選別する。しかし、主イエスは枠を作りません。では野放図なのかというそうではなく、軸をもたれる。この福音はすべての人に届けられるべきだという軸を。キリストに私の枠を壊してくださいと祈りますか、それとも、この枠の中で自分を守りますか?
2025年8月30日の聖句
主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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