2016年10月9日日曜日

ヘブライ人への手紙第11章1から3節「見えない事実を信じよう」

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と始まっています。もう少し別の訳し方をすると、こういうふうにも言えます。「信仰は希望の本質、見えない事実の証明です。」信仰は希望の本質。信じることがなければ望みというものはない、ということでしょう。「希望」とは、今はまだ現にそうなっていないものを、あたかもすでにそうであるかのように信じることです。今抑圧されている者が既に自由であるかのように振る舞うこと、今苦しむ者が実現するべき正義に既に行き始めること、それが希望です。現にもう持っているものをなお望みはしません。たとえ愛や正義が社会の中に見えなくても、たとえ将来への展望が開けなかったとしても、たとえ子どもたちの行く末が暗く見えたとしても、しかしそれにも拘わらず、神を信じる者は望みを持ちます。私たちの目に見える現実の中に、これから良くなっていきそうな証拠があるから信じるのではありません。証拠があるから、というならば、それはそもそも信じるということですらない。この現実にも拘わらず、見えない神はこの世界の中で働いておられる。私はそう信じています。私たちの目に映るこの世界は、暴力と搾取が支配している世界でしかありません。しかし、それでもこの世界は神が造ってくださった世界です。アブラハムという人は、どこに行くのかも知らないのに、神に呼ばれて旅に出ました。元いた場所、父の家にいれば安泰だったでしょう。しかし、アブラハムは神の約束を信じて、他国に宿るようにして神が約束してくださった地に住みました。或いはモーセという人は、イスラエル人でありながらエジプトの王子として育てられましたが、王子としての安逸な生活よりも神を信じる者として生きようと、目に見えない方を信じてエジプトを旅立ちました。やがてそのモーセに導かれて、イスラエルの人々はエジプトを脱出し、信仰によって海の底を歩いて約束の地に向かいました。私たちカンバーランド長老教会の始まりの時もそうです。約200年前の米国でたくさんの人が神を信じた時代に、自分たちの魂のために福音を語る者を求めた切実な声に応えて、新しい教会が生み出されました。それからわずか42年後にはカンバーランド長老教会は最初の宣教師であるエドモンド・ウィア牧師をアフリカのリベリアへ派遣しています。彼は解放奴隷でした。信仰によって、神がご自分を求める魂に応えて今も生きてこの地で働いておられることを信じ、後についていったのです。カンバーランド長老教会の海外宣教が始めて具体的な実りを結んだのは、日本でのことです。1877年、明治10年の日本にヘール宣教師が派遣されました。信仰によって、この地にも神を求める神の民が大勢いると信じたのです。今回の説教の準備過程で読んだ キング牧師の説教に心が燃えました。あの有名な「私には夢がある」というスピーチは、黒人が激しく差別され人間扱いされていない現実をじっと見つめながら、しかしなおそこで夢を語ります。「私には夢がある。今は小さな私の四人の子どもたちが、いつの日か肌の色ではなく内なる人格で評価されるようになるという夢が。」キング牧師の夢は、しかし夢想ではありません。「これが我々の夢なのだ。この信仰をもって私は南部に帰っていく。」再び差別の中へと、しかし信仰をもって帰る。希望があります。望みを拓く出来事を、神はこのさがみ野教会を通して今行ってくださいます。

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22) (イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24) 風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の...