2019年1月6日日曜日

詩編第119編105節「望みを抱く信仰〜礼拝の喜び、御言葉の味わい〜」


「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」2019年のさがみ野教会の主題であるこの聖書の言葉を読むと、私はボーイスカウトで真夜中に登山をしたときのことを思い出します。真っ暗な山道を、小さなヘッドライトの明かりを頼りに登っていきます。道の全部を照らすことは出来ません。一歩先を小さく照らすだけです。しかし、その灯のなんと心強いことか。ジョン・ヘンリー・ニューマンという英国人でローマ・カトリック教会の枢機卿にまでなって人が「やさしき道しるべの」という讃美歌の歌詞を作りました。「行くすえ遠く見を願わず。よろめくわが歩みをまもりて、ひと足またひと足、導き行かせたまえ。」神様の光が照らすのは、足下だけです。しかし、確実に照らしてくださいます。私たちは、実は自分のこれまでの人生を振り替えると、知っているのではないでしょうか。紆余曲折があり、迷うようなこともある。しかし、その折に触れて、御言葉の光に照らされて生きてきたのではないでしょうか。私にも、これまでのいろいろな場面で自分を照らしたたくさんの御言葉があります。これまでの道を振り替えることは、そこで光を放つ御言葉を思い起こすことでもあるのです。
「わたしの歩みを照らす灯」とあります。この「灯」という言葉は、礼拝と関係が深い言葉です。出エジプトをし、40年間荒れ野を旅したイスラエルの人々は、十戒を収めた契約の箱を中心に生活していました。契約の箱が置かれている聖所と呼ばれるテントがイスラエルの人々の真ん中に置かれています。真っ暗な聖所の更に奥に幕で区切られた至聖所がある。その手前に燭台が置かれていて、祭司はその燭台を常夜灯として火を絶やすことがありませんでした。その「灯」という字が、ここでも使われています。やはり、小さな火です。祈る者の手元だけを照らすような灯です。神を礼拝し、十戒に代表される神様の御言葉に聞くこと。それこそ、神の民の灯、光でした。
 私たちさがみ野教会は、181920年に交わり、礼拝、伝道という信仰生活の一番基本的な三つの事柄に焦点を合わせています。今年はその第二年目で、礼拝です。私たちは主イエスを愛し、神さまに仕え、この方を礼拝し、この方の御言葉に聞き、そのことで神様の光に私たちの足下を照らして頂きたいと願っているのです。
 エレミヤ書25:1-10を開くと、イスラエルが滅亡する直前の時代に預言者エレミヤが語った言葉が書かれています。イスラエルの危機の時代です。ヨシヤという王は神様を信じ、この方を礼拝し、御言葉に聞くことで国作りをしました。しかしその後のヨヤキムは神様に逆らい、無視し、預言者を殺しました。目に見えない神様よりも、もっと目に見えて頼りになるものに自分の未来を託したのです。10節には神様が「灯の光を絶えさせる」と裁きの言葉を告げています。私たちが頼りにしている灯の光とは、一体何でしょうか?教会の本当の危機というのは、人数や財政ではなく、礼拝すべき方を礼拝しているか、ということであるのかもしれません。
 イザヤ書42:16に神が私たちの「行く手の闇を光に変え」てくださる、とあります。私たちはこの方を信頼し、ひと足またひと足、御言葉の放つ光に照らされて、この年を歩んでいきましょう。

2025年1月10日の聖句

(主の言葉)彼らが私を畏れ、私のすべての戒めを守る心をいつも自分の中に持ち続け、彼らもその子孫も、いつまでも幸せであるように。(申命記5:29) あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。あなたがたの内に...