今日の通読箇所:マタイによる福音書7、創世記12~13、詩編9
創世記12~13;
「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。(12:1)」ただ一言、「主はアブラムに言われた」と言って始まるこの言葉だけを頼りに、彼は主が告げられたとおりに出発しました。何の保証もありません。これまで積み上げてきたものも、人脈も、何にもありません。ただ、主なる神様と、その約束の言葉があるだけです。アブラムは、裸で空中に吊されているような状態であったのではないかと思います。
使徒パウロは言いました。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ・・・(ガラテヤ1:1)」と。この人も、人による推薦や縁故、自分の業績、そのような一切の保証なく、ただ神に呼ばれたというだけの理由で、神のために仕えました。アブラムと同じ信仰に生きたのです。
アブラムのその後の人生を見ると、その点での失敗があります。エジプト滞在中に、妻サライを妹と嘘をついた事件などは、代表的なものでしょう。あるいは、彼と同行した甥のロトは、途中でアブラムと別行動をするときに、自分が進むべきは豊かで潤った地と見て進んでいきました。目に見える確かさを優先したのです。アブラムは、残り物の、特によい土地でもないところへ進んでいきます。しかし、そこには彼に呼びかけてくださった神様の約束があったのです。「さあ、その地を自由に歩き回ってみなさい。私はその地をあなたに与えよう。(13:17)」私たちが進む道にも、何も目に見える確かさや保証はありません。いや、必要ありません。神様が呼ばれた道には、目に見えなくても神ご自身の約束と祝福があるのです。