今日の通読箇所:マタイによる福音書8:1~17、創世記14~15、詩編10
創世記14~15;
「これらのことの後、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』(15:1)」これらのことの後、と始まっています。何の後なのかは、これまで読んできたとおりです。アブラムは、神様に呼ばれて、生まれ故郷も、親戚も、父の家も離れて、地縁も血縁もないところへ、神様に導かれるままに出てきました。その時、神様はアブラムに「私はあなたを大いなる国民とし」と約束なさいました。しかし、アブラムには子どもがいません。それでも神様を信じたから、アブラムは旅に出たのでしょう。しかしその後飢饉に遭ったり、甥のロトとも分かれたり、戦争に巻き込まれたり、決して平坦ではありませんでした。そういうことを経験して、「これらのことの後」に、神様がアブラムに臨んだのです。
「あなたの受ける報いは大きい』と神様はおっしゃいます。しかし、アブラムは心穏やかならずしてその言葉を聞きました。「主なる神よ。私に何をくださるというのですか。私には子どもがいませんのに。(15:2)」アブラムの神様への失望や怒りを感じさせる言葉です。神様に失望したとき、私たちはどうするでしょう?そんな私のことを、神様はどうなさるのでしょう?
「主はアブラムを外に連れ出して言われた。『天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』アブラムは主を信じた。主はそれを彼の議と認められた。(15:5-6)」神様に失望したとき、神様の答えは、さらに御言葉を、約束を聞かせる、ということでした。アブラムは、何の保証もないけれど、それを信じたのです。神様が私たちに願っておられるのは、こうやって神様をまっすぐに信じることなのではないでしょうか。疑いや怒りや失望は、避けがたくあります。それでも、神様は諦めずに御言葉を聞かせ続けてくださっています。私たちが信じるように。私たちも、この方に応えて信じたい。私を信じて私のためにすべてをささげてくださった方を私も信じて、私の信仰をお献げしたい。そう願います。
創世記14~15;
「これらのことの後、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』(15:1)」これらのことの後、と始まっています。何の後なのかは、これまで読んできたとおりです。アブラムは、神様に呼ばれて、生まれ故郷も、親戚も、父の家も離れて、地縁も血縁もないところへ、神様に導かれるままに出てきました。その時、神様はアブラムに「私はあなたを大いなる国民とし」と約束なさいました。しかし、アブラムには子どもがいません。それでも神様を信じたから、アブラムは旅に出たのでしょう。しかしその後飢饉に遭ったり、甥のロトとも分かれたり、戦争に巻き込まれたり、決して平坦ではありませんでした。そういうことを経験して、「これらのことの後」に、神様がアブラムに臨んだのです。
「あなたの受ける報いは大きい』と神様はおっしゃいます。しかし、アブラムは心穏やかならずしてその言葉を聞きました。「主なる神よ。私に何をくださるというのですか。私には子どもがいませんのに。(15:2)」アブラムの神様への失望や怒りを感じさせる言葉です。神様に失望したとき、私たちはどうするでしょう?そんな私のことを、神様はどうなさるのでしょう?
「主はアブラムを外に連れ出して言われた。『天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』アブラムは主を信じた。主はそれを彼の議と認められた。(15:5-6)」神様に失望したとき、神様の答えは、さらに御言葉を、約束を聞かせる、ということでした。アブラムは、何の保証もないけれど、それを信じたのです。神様が私たちに願っておられるのは、こうやって神様をまっすぐに信じることなのではないでしょうか。疑いや怒りや失望は、避けがたくあります。それでも、神様は諦めずに御言葉を聞かせ続けてくださっています。私たちが信じるように。私たちも、この方に応えて信じたい。私を信じて私のためにすべてをささげてくださった方を私も信じて、私の信仰をお献げしたい。そう願います。