今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙7、出エジプト記31~32、詩編54
出エジプト記31~32;
何と言うことか、神様の大いなる救いの御業を経験してエジプトを脱出したイスラエルの民は、主なる神様を裏切ってしまいました。彼らはアロンに言います。「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです(32:1)」。アロンに言われるままに自分たちの持っていた金を供出すると、アロンはそれによって金の子牛の鋳造を造り、言いました。「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と(4節)。決して許されない裏切りです。
神様ではないものを自分の神にして、その前で膝をかがめる。それは、私たちの姿であるのではないでしょうか。私たちが実は主なる神様よりも重んじているもの、聞き従っているものが、あるのではないでしょうか。
イスラエルの人々が目に見える神々を求めたのは、不安だったからです。モーセが山からなかなか下りてこなかったからです。神様が自分の期待していた答えをくださらないとき、私たちは主イエス様から離れてしまってはいないでしょうか。
今朝の通読箇所のローマの信徒への手紙にこのようにありました。「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。」「私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるのでしょうか。」私たちの命の源でいてくださる神様からこんなにも簡単に離れてしまう私は、惨めです。自分がしていることが分からない。しかし、神の恵みの力は、私たちの罪とは比較になりません。「私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです(ローマ8:38~39)」。神の憐れみにただすがりつつ、私たちを救う福音の言葉に、ただ「アーメン」と答えます。
出エジプト記31~32;
何と言うことか、神様の大いなる救いの御業を経験してエジプトを脱出したイスラエルの民は、主なる神様を裏切ってしまいました。彼らはアロンに言います。「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです(32:1)」。アロンに言われるままに自分たちの持っていた金を供出すると、アロンはそれによって金の子牛の鋳造を造り、言いました。「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と(4節)。決して許されない裏切りです。
神様ではないものを自分の神にして、その前で膝をかがめる。それは、私たちの姿であるのではないでしょうか。私たちが実は主なる神様よりも重んじているもの、聞き従っているものが、あるのではないでしょうか。
イスラエルの人々が目に見える神々を求めたのは、不安だったからです。モーセが山からなかなか下りてこなかったからです。神様が自分の期待していた答えをくださらないとき、私たちは主イエス様から離れてしまってはいないでしょうか。
今朝の通読箇所のローマの信徒への手紙にこのようにありました。「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。」「私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるのでしょうか。」私たちの命の源でいてくださる神様からこんなにも簡単に離れてしまう私は、惨めです。自分がしていることが分からない。しかし、神の恵みの力は、私たちの罪とは比較になりません。「私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです(ローマ8:38~39)」。神の憐れみにただすがりつつ、私たちを救う福音の言葉に、ただ「アーメン」と答えます。