2019年2月17日日曜日

2019年2月17日(出エジプト記33〜34)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙8:1~12、出エジプト記33~34、詩編55

出エジプト記33~34;
金の子牛の出来事のために、イスラエルの人々は神に言われてしまいました。「さあ、あなたも、あなたがエジプトの地から導き上った民も、私はアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫に与える』といった地に、ここから上っていきなさい。・・・しかし私は、あなたの間にいて一緒に上ることはしない(33:1、3)」。モーセは、民のために執りなしの祈りをします。昨日の章でも、すでにその祈りを始めていました。そして、民のために自分自身の命をかけたモーセの祈りのために、神様はこのような民と共に歩むと言ってくださったのです。
今新約聖書で読んでいるローマの信徒への手紙でもそうですが、聖書を読むと、自分自身の罪深さに気づかされます。神様は、イスラエルの人々が約束の地にいざ入ったら、たちまち再び神様を裏切ることになると指摘なさいます。出エジプト記34:12~16です。しかし、神様は、そのような私たちであるからこそ、共に歩むと決断してくださったのではないでしょうか。
そのしるしは、34:18以下で、とつぜん除酵祭の話が始まっているところに表されています。私たちは繰り返し神様を裏切ってしまう、弱くて愚かな罪人です。そんな私たちが、神様の一方的な愛と憐れみで救われたことを思い起こす除酵祭、過越の祭を繰り返し祝って、神にすがるより他ない自分であることに気づくために、神はこの礼拝を定めてくださったのではないでしょうか。神は、私たちと共に歩んでくださっています。私たちが罪を悔い改めて、神様の御許に帰って行くために。

2025年1月15日の聖句

姦淫してはならない。(出エジプト記20:14) 夫は妻を蔑ろにしてはならない。妻も夫を蔑ろにしてはならない。(1コリント7:3) 姦淫というと、浮気や不倫という言葉とすぐに結びついて考えられます。しかし単にそれだけではなく、聖書はもっと積極的にこのことを考えているように思います。...