私たちには、親や恩師、友達といった人たちからかけられた何気ない一言や、世間の空気やテレビで見聞きしたことに思わぬ影響を受けていることがあります。もちろんいい影響を与えてくれることもありますが、思わぬ呪いとなることもあります。それに気づいて、そこから解放されるのは、案外難しいところがあるのではないかと思います。私たちの考え方や生き方を実際に導いているのは、一体どのような言葉であり、考え方、あるいは存在なのでしょうか?日本は「寄らば大樹の陰」社会ですから、私たちも周りと合わせながら常識的に長いものに巻かれてしまうこともあるのかもしれません。ところが聖書は、私たちは「その兄弟のためにもキリストは死んでくださったのです」というキリストの救いの出来事に生かされているのだ、と言います。キリストが、目の前のこの人と、この私とのために死んで、私たちを兄弟姉妹にしてくださった。この事実が私たちを生かしているのだ、と聖書は言います。今日、この福音に耳を傾けたいと願います。
話は偶像に供えられた肉を食べてもいいのか否か、ということでした。基本的な態度は、偶像の神などはそもそも存在しないのだから、それに供えられたからといってその肉を恐れる必要はない、ということになります。でもコリントの教会の中でそのことが問題になっていました。その2句を食べることに良心の呵責を覚える人がいたのです。もともと、ギリシア人たちです。ギリシアの神々を信じて板人たちがキリストと出会い、キリストを信じました。ある人にとっては、キリスト者になったからといってもその神々に供えられた肉が怖かったのです。食べたら、たたりがあるかもしれない。以前信じていた神々からか、あるいはキリストからか。神々からたたられると恐れるなら、まことの神以外に神はいないという点での確信が曖昧だということでしょう。キリストにたたられる(あるいは裁かれる)と恐れるなら、私たちは自分の正しさや立派さではなくただ神の憐れみと恵みによって救われるという福音の確信が揺らいでいるということでしょう。ですから、気にせず食べて構わないというのが正しい態度なのです。
ただ、と続きます。「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。」信仰が曖昧な弱い人が、あなたのそういう正しい振る舞いを見て、信仰においては曖昧で確信がないままにあなたの振る舞いを形だけまねして、結局もとの神々に戻ってしまうのではないか、というのです。いくら正しいことを動機に行動したのだとしても、その正しさが人に優しいとは限りません。自分の正しさが隣人の魂を損なうことがあるのです。「自由な態度」という言葉は、権利とも訳せる言葉です。自分の自由な権利を主張することは、現代ではたいへん重んじられている価値観です。それはもちろん大切なことで、何者も冒してはならない基本的な権利は蔑ろにしてはいけません。しかしもしも私の自由が人を滅ぼしてしまうことがあるなら、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」とまでパウロは言うのです。それは、この兄弟のためにも、キリストが死んでくださったから。キリストの死が私たちの行動に愛という新しい動機を与えるのです。