2019年7月21日日曜日

コリントの信徒への手紙一第14章20から25節「まことに、神はあなたがたの内に」

 「説教黙想アレテイア」という雑誌のために詩編第102編の黙想を書きました。1819節が私の心に残っています。「主はすべてを失った者の祈りを顧み、その祈りを軽んじませんでした。このことは後の世代のために書き記されるべきです。新たに創造される民は主を賛美するでしょう(聖書協会共同訳)」。私たちにも、祈りがあります。家族が病気になったり、理不尽な目に遭うこともあります。祈るより他ないこと、祈る信仰が失われかねないこともあるかもしれません。私たちにとって神様の御心はあまりに大きく、計り知れないので、私たちが知りうるのはごく一部のことです。だからこそ、私たちは祈る。祈ることのできる相手がいるというのは、それ自体が大きな福音です。だから、「新たに創造される民は主を賛美するでしょう」と言うのです。主は、賛美されるべき方だから。神様の恵みの御業と力を、祈りの内に経験するとき、私たちは神様の前に膝をかがめ、神を礼拝します。これこそ私たち人間の、最高のしあわせではないでしょうか。
 さがみ野教会の今年の主題の一つは「礼拝」そして来年は「伝道」です。礼拝と伝道はつながっています。礼拝こそ、最高の伝道の場であると信じています。「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」皆が預言しているところに来た人は、ついには神さまを礼拝するようになるはずだと言います。そうなのだとしたら、その「皆が預言している」というのは、どういう事態を指しているのでしょうか。当時のコリント教会では、礼拝のときに何人かが預言をしたようです。しかしそれは無秩序に好き勝手していたのではなく、互いの預言に耳を傾けていた。預言は、そういう相手に届けるための言葉でした。今、私たちの教会では礼拝で語る役割は主に牧師に委ねています。しかしそれは「私は話す人、皆さんは聞く人」ということではありません。現代も変わることなく、教会は皆が預言をする預言者集団です。まず、牧師がする説教は、聖書を読んだ個人的感想ではありません。教会の信仰に基づいて言葉を紡ぎます。個人の言葉ではなく、教会の言葉です。しかしそれだけではない。教会は、語られた言葉に「。」を付けます。句点です。「新たに創造される民は主を賛美するでしょう“。”」大胆に神を信じて、福音を宣言する言葉に結びをもたらす。句点を付けるのです。「しかし、私たちは弱いので賛美できない気分の時もあって…」と言い訳をするために文章を続けることを許さない。「まことに、神はあなたがたの内におられます」、アーメン、“。”です。
 そうやって共に預言をする教会に、信者出ない人か、教会に来て間もない人が入ってきたら、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言って、神をあがめるようになる。大胆に神を信じる信仰は、他の人が神と出会う助けとなります。共に預言する集団が、神と人との出会いの場として用いられる。神と出会う時、罪の告白が生まれます。それは、そこで出会うお方が、私たちのために十字架にかけられた方だからです。このお方と出会うための預言者として、私たちは召されています。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...