2019年7月14日日曜日

コリントの信徒への手紙一第14章6から19節「人を造り上げる言葉」


 今、私は日本中会の礼拝書追加式文特設委員会というものに入っています。礼拝書というのは今私も使っていますが、礼拝のいわゆる「式文」と呼ばれる、礼拝の順序やそこでの祈りの言葉を記したものです。毎週の主日礼拝は勿論、洗礼や聖餐から牧師の按手式に至るまで、いろいろな礼拝の祈りの言葉が収められている。しかし出版してからずいぶん時間が経ち、特に葬儀についてはもう少し祈りを追加する必要があるのではないかということで、この委員会が立ち上げられました。ですから、この委員会での仕事は祈りの言葉を整えることです。とても勉強になります。もちろん礼拝ですから、実際に使うときは書いてあることをただ呪文のように唱えるだけではダメです。予め整えられ、準備された言葉を手掛かりにしながら、一人の信仰者として心を込めて祈る。当然のことです。
 先日の祈祷会に参加した方が、これから自分は「神様」というのではなく、「お父様」と祈り出したいという話をしてくださいました。祈りに込めたその方の信仰に、胸が打たれる思いがしました。
 祈りの言葉は神に献げる物ですが、礼拝や祈祷会で祈る以上、自分と神様だけのことではありません。教会で献げる祈りは、教会そのものを造り上げます。祈りはプライベートなだけでなく、パブリックなものでもあります。パウロによれば、異言による祈りはこのパブリック性を欠いていると言うのです。異言による祈りは他の人を造り上げない。なぜか。それは理性による言葉ではないから、あなたが信仰に篤く神に感謝をささげても、周りの人たちは「アーメン」と言えずに置いてけぼりを食ってします。それでは隣人を造り上げることがないだろう、と言うのです。
 隣人に向かう言葉、預言の言葉は、これに対して理性的な言葉です。理性によって他人が理解するためです。信仰は理性を犠牲にしない。むしろ、理性によって共有されることを求めます。そこでいかなるメッセージを語るのか。「ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか」と言っています。味方の進軍を告げるラッパです。これを聞いたら、共に出陣します。何を目指す戦いなのか。キリストの前に、互いを信仰者として造り上げることです。このコリントの信徒への手紙は、繰り返しキリストは十字架にかけられた方だと言い続けてきました。ですから、私たちは十字架にかけられたキリストの前に、信仰者として造り上げられることを願います。私たちが十字架を背負ってキリストに従うために、今ラッパが響いているのです。
 19節をみると「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉をたる方をとります」と言っています。この「教える」ですが、ギリシア語では「カテーケオー」といいます。カテキズム(信仰問答)の語源になった言葉です。この言葉の原義は「上から響かせる」。上というのは舞台です。舞台の上から役者が言葉を響かせる。自分の知らないことが外から響いてくる。福音の言葉は、まさにそのように私の外から響いてくる言葉なのです。例えばハイデルベルク信仰問答では、ここで話題になっている聖霊について、「聖霊が、この私にも与えあられており」と告白します。恍惚とした祈りがなくても、聖霊は私たちにも与えられている。私たちが十字架のキリストに従うため、理性の言葉で互いのために祈り、語り合うために。

2025年1月11日の聖句

私は彼らと平和の契約を結び、これは永遠の契約となる。(エゼキエル37:26) 今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、恵みと平和があなたがたにあるように。(黙示録1:4,5) 聖書は神さまと私たちとの関係を「契約」という言葉で表します。例えば、箱舟を降りたノアに神さまは、虹...