今日の通読箇所:ヨハネによる福音書3、歴代誌上5~6、箴言9
歴代誌上5~6;
淡々としたような系図の中に、時々、光るような言葉が登場します。これは、本当なら系図に名前が記された一人ひとりに神が関わり、それぞれにドラマがあることを、このように代表の姿を通して描いて見せているのだろうと思います。
ルベンとガドとマナセの半部族はヨシュアに導かれてカナンに入植したときにヨルダン川を渡りませんでした。彼らの物語がここに記録されています。彼らは勇者の一族であったといいます。「彼らがハガル人、エトル、ナフィシュ、ノダブと戦ったとき、神は彼らを助け、ハガル人とその味方を皆、彼らの手に渡された。これは、戦いに際して彼らが神に叫び求め、神への信頼のゆえにそれが聞き入れられたからである(5:19,20)」。こうして彼らは、捕囚になるまでその地に住みました。
私たちも、後の日、私たちがもうこの世からいなくなったときこのように人生を振り返ってもらえたなら、幸いなことだと思います。私の生き方はどういうもので、こういう成果を上げられたとか大したことはなかったとか、いろいろなことがあると思います。しかし、ただ一言この人は神に信頼し、神はこの人を助けてくださったとまとめられるなら、それはなんと幸いなことでしょう。私の葬式の時、説教者がそう語ってくださるような信仰者でありたいと切に願います。
しかし、23節からを見ると、ヨルダン川の東にいたマナセの半部族は、「先祖の神に背き、神が彼らの前から滅ぼされたその地の民の神々を慕って姦淫した(25)」のでした。もしかしたら、これが私たちの信仰生活の実際なのかもしれません。神に信頼し、あるいは背き、神の祝福を喜び、神の裁きを悲しむ。その繰り返しなのかもしれません。そのような私の毎日の歩みを罪から救ってくださるお方に、今日という新しい一日を始めるにあたって、真実な祈りを献げつつ歩み出したいと願います。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と!
歴代誌上5~6;
淡々としたような系図の中に、時々、光るような言葉が登場します。これは、本当なら系図に名前が記された一人ひとりに神が関わり、それぞれにドラマがあることを、このように代表の姿を通して描いて見せているのだろうと思います。
ルベンとガドとマナセの半部族はヨシュアに導かれてカナンに入植したときにヨルダン川を渡りませんでした。彼らの物語がここに記録されています。彼らは勇者の一族であったといいます。「彼らがハガル人、エトル、ナフィシュ、ノダブと戦ったとき、神は彼らを助け、ハガル人とその味方を皆、彼らの手に渡された。これは、戦いに際して彼らが神に叫び求め、神への信頼のゆえにそれが聞き入れられたからである(5:19,20)」。こうして彼らは、捕囚になるまでその地に住みました。
私たちも、後の日、私たちがもうこの世からいなくなったときこのように人生を振り返ってもらえたなら、幸いなことだと思います。私の生き方はどういうもので、こういう成果を上げられたとか大したことはなかったとか、いろいろなことがあると思います。しかし、ただ一言この人は神に信頼し、神はこの人を助けてくださったとまとめられるなら、それはなんと幸いなことでしょう。私の葬式の時、説教者がそう語ってくださるような信仰者でありたいと切に願います。
しかし、23節からを見ると、ヨルダン川の東にいたマナセの半部族は、「先祖の神に背き、神が彼らの前から滅ぼされたその地の民の神々を慕って姦淫した(25)」のでした。もしかしたら、これが私たちの信仰生活の実際なのかもしれません。神に信頼し、あるいは背き、神の祝福を喜び、神の裁きを悲しむ。その繰り返しなのかもしれません。そのような私の毎日の歩みを罪から救ってくださるお方に、今日という新しい一日を始めるにあたって、真実な祈りを献げつつ歩み出したいと願います。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と!