2019年11月4日月曜日

2019年11月4日(エゼキエル書8〜10)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書10:22~42、エゼキエル書8~10

エゼキエル書8~10;
エゼキエルは幻の内に、神の霊によってエルサレムの神殿へ連れて行かれます。このとき、彼はバビロンの捕囚地にいました。この時期、エルサレムは、まだ陥落はしていません。第一回捕囚が前598年、エゼキエルがケバル川のほとりで主の栄光に接したのは、第一章によれば5年目のことなので前593年、そして今日の第8章はその翌年のことです。第二回捕囚、神殿も崩壊してユダの国が滅亡するのが前587年ですので、その直前ということになります。その時代のエルサレム神殿の罪の真相について、エゼキエルは主に見せられた幻によって知ることになるのです。
「すると霊が私を地と天の間に引き上げ、神の幻の内に私をエルサレムへ、北に面した内側の門の入り口に連れて行った。そこには、妬みをかき立てる妬みの像の座があった。すると、そこには私が平野で見た姿のままにイスラエルの神の栄光があった」(8:3~4)。妬みの像、つまりは偶像のことです。エゼキエルは、この神殿に「さまざまな這うものや憎むべき獣の像およびイスラエルの家のあらゆる偶像が、周りの壁一面に彫られていた」(10節)のを目撃します。それは甚だしく忌まわしいことだ、と神に断罪されます。
つまり、イスラエルの問題は神ならぬものを神として拝んでいた、という一点が急所だということに他なりません。神殿は、主の栄光を崇め、礼拝するべき場所です。それなのに、そこに神ならぬものを持ち込んで礼拝している。神ならぬものというのは、別の○○教という宗教が邪教だという話ではありません。主を礼拝するといいながら、自分の欲望を礼拝していることの忌まわしさです。自分の思い通りに神を操ってやろうという傲慢が、イスラエルを偶像礼拝の虜にしてしまいました。
神を神としてあがめることを拒むというのは、どういうことなのでしょうか。「イスラエルとユダの家の過ちは甚だしく大きい。この地は血で満ち、町は不法に満ちている。それは、彼らが『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言ったからだ。私は憐れみの目を向けず、彼らを惜しまない。私は彼らの行いをその頭上に報いる」(9:9~10)。神様の憐れみを見くびっている、ということではないでしょうか。。神様の愛の深さをなめていたのです。だから、神ならぬものを神としなければ生きられいないと勘違いするに至ってしまった。神をなめきった不信仰が神の栄光を神殿から追い出してしまったのです。それが、罪の奥にある事柄の真相です。「御名を崇めさせたまえ」と、今朝、神の憐れみにすがりつつ祈ります。

2025年1月17日の聖句

誰の道も主の御前に開かれている。(箴言5:21) 主が来られるときまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。(1コリント4:5) 私たちにとって、人を裁くのは快感です。そもそも人が集まって一番盛り上がるのは...