今日の通読箇所:ヨハネによる福音書11:1~16、エゼキエル書11~12
エゼキエル書11~12;
預言者エゼキエルは神に命じられます。「人の子よ、あなたは捕囚の荷物を準備し、彼らの目の前で、昼の内に捕囚の身となって行け。彼らの目の前で、あなたのいる所から他の所に、捕囚の身となって行け。そうすれば、彼らは自分が反逆の家であることに気づくであろう」(12:3)。この一人の預言者の姿を見て、人々が自分の姿に気づくはずだと神様は言われます。ここには、裁きの言葉が重ねられています。「人々の住んでいた町が廃墟となり、地は荒れ果てる。その時、あなたがたは私が主であることを知るようになる」(12:20)。この裁きを通して神に立ち帰れと言います。ところが、「人の子よ、イスラエルの家は言っている。『彼の見た幻は多くの日々の後のことであり、彼は遠い将来のことを預言したのだ』」(12:27)。人々は、エゼキエルを通して語られた神の言葉を真剣に聞こうとはせず、神に立ち帰ろうともしませんでした。
それに対し、神はどうなさるのでしょうか。前の章でこのようにありました。「そして、主の栄光が神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。・・・彼らはそれぞれ前の方にまっすぐ進んでいった」(10:18.22)。そして、11:22~25に続きます。「主の栄光は町の中から昇り、町の東にある山の上にとどまった」(23節)。主の栄光はエルサレムを離れ、神殿を後にしてしまった。民への裁きが決定的なものとなった、ということでしょう。主の栄光が去った神殿など、もはや無用の長物でしかありません。
しかし、主は言われます。「確かに私は彼らを諸国民の中に遠ざけ、国々の中に散らした。しかし私は、彼らが行った先の国々で、しばらくの間、彼らのための聖所となった」(11:16)。主ご自身が、聖所になってくださいます。主ご自身が、私たちの礼拝を執り成してくださるのです。それは、私たちを遂には回復させるためです。「私は彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授ける。彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を授ける。それは彼らが私の掟に従って歩み、私の法を守り行うためである。その時、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる」(11:19~20)。この「肉の心」というのは、柔らかい心という意味であろうと思います。かたくなで固まってしまった私たちの心を、神が柔らかくしてくださる。そのために、主ご自身が私たちの聖所になってくださいました。言うまでもなく、私たちは、その約束が主イエスにおいて成就したことを知っています。主は、私たちのために肉の心を生み出すために、ご自分の霊をも送ってくださったのです。
エゼキエル書11~12;
預言者エゼキエルは神に命じられます。「人の子よ、あなたは捕囚の荷物を準備し、彼らの目の前で、昼の内に捕囚の身となって行け。彼らの目の前で、あなたのいる所から他の所に、捕囚の身となって行け。そうすれば、彼らは自分が反逆の家であることに気づくであろう」(12:3)。この一人の預言者の姿を見て、人々が自分の姿に気づくはずだと神様は言われます。ここには、裁きの言葉が重ねられています。「人々の住んでいた町が廃墟となり、地は荒れ果てる。その時、あなたがたは私が主であることを知るようになる」(12:20)。この裁きを通して神に立ち帰れと言います。ところが、「人の子よ、イスラエルの家は言っている。『彼の見た幻は多くの日々の後のことであり、彼は遠い将来のことを預言したのだ』」(12:27)。人々は、エゼキエルを通して語られた神の言葉を真剣に聞こうとはせず、神に立ち帰ろうともしませんでした。
それに対し、神はどうなさるのでしょうか。前の章でこのようにありました。「そして、主の栄光が神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。・・・彼らはそれぞれ前の方にまっすぐ進んでいった」(10:18.22)。そして、11:22~25に続きます。「主の栄光は町の中から昇り、町の東にある山の上にとどまった」(23節)。主の栄光はエルサレムを離れ、神殿を後にしてしまった。民への裁きが決定的なものとなった、ということでしょう。主の栄光が去った神殿など、もはや無用の長物でしかありません。
しかし、主は言われます。「確かに私は彼らを諸国民の中に遠ざけ、国々の中に散らした。しかし私は、彼らが行った先の国々で、しばらくの間、彼らのための聖所となった」(11:16)。主ご自身が、聖所になってくださいます。主ご自身が、私たちの礼拝を執り成してくださるのです。それは、私たちを遂には回復させるためです。「私は彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授ける。彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を授ける。それは彼らが私の掟に従って歩み、私の法を守り行うためである。その時、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる」(11:19~20)。この「肉の心」というのは、柔らかい心という意味であろうと思います。かたくなで固まってしまった私たちの心を、神が柔らかくしてくださる。そのために、主ご自身が私たちの聖所になってくださいました。言うまでもなく、私たちは、その約束が主イエスにおいて成就したことを知っています。主は、私たちのために肉の心を生み出すために、ご自分の霊をも送ってくださったのです。