今私たちが読んでいるヨハネによる福音書の最初の部分は、どこまでが一つの段落なのか。恐らく、第2章11節までで一つのまとまりになっています。そこには「それで、弟子たちはイエスを信じた」とあります。弟子たちのイエスとの出会いと入信の物語ということになります。そこに至るまで、第1章19節からを改めてみてみると、この段落がちょうど一週間の出来事を記録しているのだ、ということが分かります。1:19〜28は、正確に何曜日のことかは分かりませんが仮に日曜日だとすると、29節に「その翌日」とあるので、ここは月曜日。今日の35節にも「その翌日」とあるので火曜日。43節にも「その翌日」とあるので、水曜日。2:1には「三日目に」とありますから、これは土曜日です。ヨハネによるイエスの証言から始まり、それによってある者がイエスと出会い、イエスをメシアと呼び、あるいは神の子と呼び、イエスを信じるに至る。彼らは、イエスを見て、イエスを信じました。今日の箇所には「見る」という言葉が至るところに出てきます。イエスを見て、出会い、信じた。そういうと、私たちはイエスをこの目で見ることはできないのであって、これは私とは関係のない2000年前のこと、結局は聖書の中のお話、ということになってしまうのでしょうか?
グリューネヴァルトという画家がイーゼンハイムの祭壇画という絵を描いています。磔刑図と呼ばれる、十字架の上のイエスを描いた作品です。あまりにも凄惨な絵ですので、一度見ると忘れることができません。十字架の横には洗礼者ヨハネが立ち、イエスを指さしています。このヨハネの手だけが、どこまでも暗い色彩のこの絵の中で、明るい色が使われているのです。この指は、「見よ、神の小羊だ」と語っています。イエスを見よ、と言っている。
イーゼンハイムの祭壇画は、フランスとドイツの国境のあたりにあるイーゼンハイムという村にある聖アントニウス修道院附属の療養所のために書かれたものだそうです。この療養所はペストと麦角中毒患者のためのものでした。死に繋がる病に苦しむ人びとが、十字架で苦しむイエスを見つめていた。神の小羊の姿をそこに見ていた。そのようにしてイエスと出会っていたに違いないと思います。
二人の弟子がヨハネに促されてイエスに従っていきました。後に付いてきたのをイエスが見て、「何を求めているのか」と言われます。ちょっと意外な言葉でした。自分が求めていることはろくでもないことばかりだという思いが強いのか、自分の願いを信じる気にならなかったからです。しかし、イエスは「何を求めているのか」と尋ねてくださる。私のちっぽけでつまらないような願いをも、どうでもいいことだとはなさらないのです。
二人はイエスのところに泊まりました。その夜、どんなことを語り合ったのでしょうか。彼らにすれば真剣な、しかし他人から見れば取るに足りないことかもしれません。しかし主イエスはそういう私たちにひそかに芽生える、永遠を思い、真理を求める憧れを重んじてくださったのです。だから、二人の内の一人のアンデレは、朝になるとすぐに兄弟シモンと会い、自分はメシアと出会ったと言って彼を連れて行きます。主イエスはシモンをじっと見つめて、彼をケファと呼びました。こうしてイエスのまなざしと出会い、彼の新しい人生が始まったのでした。