今日の東独箇所:ヨハネの黙示録16、ミカ書1~2
ミカ書1~2;
「これらすべてはヤコブの背きと、イスラエルの家の罪によるものだ。ヤコブの背きとは何か。サマリアではないか。ユダの高き所とは何か。エルサレムではないか」(1:5)。
預言者ミカは、ちょうど北王国イスラエルがアッシリアによって滅亡させられた時代に、南王国ユダで活動した預言者です。南王国にとっても状況は悪化の一路をたどり、滅びに突き進んでいくような時代です。
最初に引用した言葉は、驚くべき言葉であると思います。ヤコブの背き、イスラエルの家の罪。それは、サマリアであると言われます。サマリアは北王国の首都です。そこには王がいますが、それだけではなく、バアル神殿もありました。サマリアで、北王国のさまざまな王朝のいろいろな王たちが神に背き、偶像礼拝を重ねてきました。そこにイスラエルの家の罪の急所があると指摘されています。
そこまではある程度分かりやい。しかし、その続きがあります。「ユダの高き所とは何か。エルサレムではないか。」ユダの高き所。「高き所」というのは、土着の礼拝所のようなものです。これについては律法で「その地のすべての住民をあなたがたの前から追い払い、すべての石像を打ち壊し、すべての鋳物の像を打ち壊し、高き所をことごとく破壊しなければならない」(民数記33:52)と定められていました。特にソロモンがエルサレムに神殿を建築し、やがて王国が分裂した後には北王国はエルサレムから離れてしまいましたから、勝手に造った礼拝所が常につまずきであり続けました。礼拝が好き勝手に変質していたからです。それに対し、エルサレムにあるのは、ソロモンの神殿です。神がその名をおいてくださる場所です。そのはずでした。それなのに、ユダの高き所、それはエルサレムだと言われてしまう。神殿という建物があるだけで、そこでの礼拝は自分勝手な、神に受け入れられるようなものではなくなっている、ということなのでしょう。恐るべき言葉です。
「あなたがたは、戦いを避けて無事に過ごそうとする者から、平和の者から外套を奪う。わが民の女たちをあなたがたは居心地のよい家から追い出し、子どもたちから、わが誉れをとこしえに奪う。立って、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。汚れのために滅び、その滅びは悲惨である」(2:8~10)。礼拝が曲がってしまい、自分の好き勝手にやっているだけだということと、隣人同士平和に生きることができなくなっているということとは、一つのことだということなのではないでしょうか。
主よ、私たちを憐れんでくださいと祈りつつ、今日の日を歩み始めます。
ミカ書1~2;
「これらすべてはヤコブの背きと、イスラエルの家の罪によるものだ。ヤコブの背きとは何か。サマリアではないか。ユダの高き所とは何か。エルサレムではないか」(1:5)。
預言者ミカは、ちょうど北王国イスラエルがアッシリアによって滅亡させられた時代に、南王国ユダで活動した預言者です。南王国にとっても状況は悪化の一路をたどり、滅びに突き進んでいくような時代です。
最初に引用した言葉は、驚くべき言葉であると思います。ヤコブの背き、イスラエルの家の罪。それは、サマリアであると言われます。サマリアは北王国の首都です。そこには王がいますが、それだけではなく、バアル神殿もありました。サマリアで、北王国のさまざまな王朝のいろいろな王たちが神に背き、偶像礼拝を重ねてきました。そこにイスラエルの家の罪の急所があると指摘されています。
そこまではある程度分かりやい。しかし、その続きがあります。「ユダの高き所とは何か。エルサレムではないか。」ユダの高き所。「高き所」というのは、土着の礼拝所のようなものです。これについては律法で「その地のすべての住民をあなたがたの前から追い払い、すべての石像を打ち壊し、すべての鋳物の像を打ち壊し、高き所をことごとく破壊しなければならない」(民数記33:52)と定められていました。特にソロモンがエルサレムに神殿を建築し、やがて王国が分裂した後には北王国はエルサレムから離れてしまいましたから、勝手に造った礼拝所が常につまずきであり続けました。礼拝が好き勝手に変質していたからです。それに対し、エルサレムにあるのは、ソロモンの神殿です。神がその名をおいてくださる場所です。そのはずでした。それなのに、ユダの高き所、それはエルサレムだと言われてしまう。神殿という建物があるだけで、そこでの礼拝は自分勝手な、神に受け入れられるようなものではなくなっている、ということなのでしょう。恐るべき言葉です。
「あなたがたは、戦いを避けて無事に過ごそうとする者から、平和の者から外套を奪う。わが民の女たちをあなたがたは居心地のよい家から追い出し、子どもたちから、わが誉れをとこしえに奪う。立って、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。汚れのために滅び、その滅びは悲惨である」(2:8~10)。礼拝が曲がってしまい、自分の好き勝手にやっているだけだということと、隣人同士平和に生きることができなくなっているということとは、一つのことだということなのではないでしょうか。
主よ、私たちを憐れんでくださいと祈りつつ、今日の日を歩み始めます。