今日の通読箇所:ヨハネの黙示録17、ミカ書3~4
ミカ書3~4;
主なる神様が言われます。「私は言う。聞け、ヤコブの頭たち、イスラエルの家の支配者たちよ。あなたがたは公正を知っているはずではないか。善を憎み、悪を愛し、人々の皮を剥ぎ、その肉を骨からそぐ者たち」(3:1)。あなたたちは公正を知っているはずではないか、と主は言われます。なぜなら、それは主の教え、律法に示されているからです。ただ神だけを礼拝し、安息日を守り、殺すことなく、姦淫をせず、隣人の家を貪らないことです。神様は私たちが公正と慈しみに生きる道を教えてくださいました。私たちはそれをよく知っているはずです。しかし、それなのに、と主は言われます。「善を憎み、悪を愛し、人々の皮を剥ぎ、その肉を骨からそぐ者たち」になってしまっている、と。自分が生きるために他人を犠牲にしているのはなぜか、それは公正にもとるではないかと主は言われます。
私たちの社会は、弱い者を食い物にすることを正当化するために「自己責任」という言葉を発明しました。人にやっかいをかけることは、死なねばならないほどの悪と見なすようになりました。国家の法律では違法でなかったとしても、主の前に出るなら不正と言わねばならないことは、やはりあるのではないでしょうか。私たちの社会は、一体どうしたら救われるのでしょう。
「終わりの日に」と聖書は言います。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。そして、もろもろの民が川の流れのようにそこに向かい、多くの国民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう』と。教えはシオンから、主の言葉はエルサレムから出るからだ」(4:1~2)。終わりの日に、もろもろの民が主の山に向かい、そこで主の教えを求め、主の言葉をしたい求めてこれに生きる。そう約束しています。私たちが主の公正と慈しみに生きる日が来る、と言うのです。それは『終わりの日』のことです。主が起こしてくださる終わりの日の救いの出来事です。私たちの努力の末にあるのではなく、主の御業の中で、私たちも、私たちの社会も、主の救いに与る日が来るのです。その日まで、私たちの苦しみはなお続くでしょう。私たち自身の罪がもたらす苦しみであり、主の前に悔い改めねばならない過ちがなお続くでしょう。しかし、それでも、主は救いの日を来たらせてくださいます。主が、私たちのために、私たちが「剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す」(4:3)べき明日をもたらしてくださいます。「御国を来たらせたまえ!」それが、私たちの祈りです。
ミカ書3~4;
主なる神様が言われます。「私は言う。聞け、ヤコブの頭たち、イスラエルの家の支配者たちよ。あなたがたは公正を知っているはずではないか。善を憎み、悪を愛し、人々の皮を剥ぎ、その肉を骨からそぐ者たち」(3:1)。あなたたちは公正を知っているはずではないか、と主は言われます。なぜなら、それは主の教え、律法に示されているからです。ただ神だけを礼拝し、安息日を守り、殺すことなく、姦淫をせず、隣人の家を貪らないことです。神様は私たちが公正と慈しみに生きる道を教えてくださいました。私たちはそれをよく知っているはずです。しかし、それなのに、と主は言われます。「善を憎み、悪を愛し、人々の皮を剥ぎ、その肉を骨からそぐ者たち」になってしまっている、と。自分が生きるために他人を犠牲にしているのはなぜか、それは公正にもとるではないかと主は言われます。
私たちの社会は、弱い者を食い物にすることを正当化するために「自己責任」という言葉を発明しました。人にやっかいをかけることは、死なねばならないほどの悪と見なすようになりました。国家の法律では違法でなかったとしても、主の前に出るなら不正と言わねばならないことは、やはりあるのではないでしょうか。私たちの社会は、一体どうしたら救われるのでしょう。
「終わりの日に」と聖書は言います。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。そして、もろもろの民が川の流れのようにそこに向かい、多くの国民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう』と。教えはシオンから、主の言葉はエルサレムから出るからだ」(4:1~2)。終わりの日に、もろもろの民が主の山に向かい、そこで主の教えを求め、主の言葉をしたい求めてこれに生きる。そう約束しています。私たちが主の公正と慈しみに生きる日が来る、と言うのです。それは『終わりの日』のことです。主が起こしてくださる終わりの日の救いの出来事です。私たちの努力の末にあるのではなく、主の御業の中で、私たちも、私たちの社会も、主の救いに与る日が来るのです。その日まで、私たちの苦しみはなお続くでしょう。私たち自身の罪がもたらす苦しみであり、主の前に悔い改めねばならない過ちがなお続くでしょう。しかし、それでも、主は救いの日を来たらせてくださいます。主が、私たちのために、私たちが「剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す」(4:3)べき明日をもたらしてくださいます。「御国を来たらせたまえ!」それが、私たちの祈りです。