2020年5月13日水曜日

2020年5月13日(ルカによる福音書13:22〜35)

ルカによる福音書13:22~35
「狭い戸口から入るように努めなさい。」
「狭き門」というと、普通は東京大学だとか、司法試験だとか、そういうなかなか突破できない難関大学や試験を指します。主イエスもそういう意味でおっしゃったのでしょうか。なかなか突破できない試験に合格するようにして、信仰の試験に合格するように努力しなさい、とおっしゃったのでしょうか。普通では受験することさえできないような難関大学に入学できれば、誇らしいことでしょう。そういう試験に見事合格するようにして救いを獲得するようにと主イエスはおっしゃったのでしょうか。
主イエスはここでおっしゃっています。「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」そこではと言われていますが、「そこ」というのは神の国のことです。神の国では、後の人が先になること、先の人が後になることがある。私たちの価値観とは違うことが起こる。そうすると、私たちが考える狭き門と、主イエスが言われる狭い戸口というのは、どうやら違っているということになると思います。
続く31節以下では、ヘロデやエルサレムに対する厳しい批判が語られています。ヘロデが主イエスを殺そうとしている。それに対し、「行って、あの狐に、『私は今日も明日も三日目も、悪霊を追いだし、癒やしを行うことをやめない』と伝えよ。ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んでいかねばならない」と答えます。更に彼に代表されるエルサレムに対しては「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。実よ、お前たちの家は見捨てられる」と言っています。
どちらも、イエスの招きに応じようとしない頑なさの問題を指摘しているのだと思います。そうすると、恐らく主イエスが言う狭い戸から入るというのは、イエスの招きに応じて、イエスのもとに立ち返ることなのではないでしょうか。難関の狭き門の突破は、本人の努力や育った環境、あるいは幸運がもたらします。そこには誇りが生まれます。しかし、主イエスが開く狭い戸は、へりくだりの道です。それは狭いので、身をかがめなければ入ることができません。あらゆる誇りや自負心を捨て、私たちを招くイエスのもとへ帰ること、それが狭い戸から入るということなのではないでしょうか。
私たちが死の床に就いたとき、世間が褒めそやす狭き門に入り得たという誇りが何の役に立つのでしょう。しかし、キリストが開く狭い戸から入るならば、そこに私たちの命以上の価値があることに気づきます。私たちは神の国の宴席に招かれているのです。

2025年1月15日の聖句

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