2020年5月3日日曜日

2020年5月3日(ルカによる福音書8:40〜56)

ルカによる福音書8:40~56
「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた。『泣かなくてもよい。娘は死んだのではない。眠っているのだ。』人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスを嘲笑った。イエスは娘の手を取って、『子よ、起きなさい』と呼びかけられた。すると、霊が戻って、娘はすぐに起き上がった。」
主イエスには、私たちには見えない現実が見えているのでしょう。人々は、イエスの言葉を聞いて嘲笑いました。イエスが、娘は死んだのではなく眠っているのだと言ったからです。私たちとは違う古代人だから、死人が生き返るなんてことを信じられたわけではありません。彼らにとって、死は、私たちよりもずっと身近にあります。私たちよりもずっとよく死の厳しさを知っていた。だから、彼らはイエスの言葉を嘲笑いました。死んだ人間は、決して生き返らないからです。
しかし、主イエスは娘の手を取り、言います。「子よ、起きなさい」と。すると、娘の霊が戻り、娘は起き上がりました。主は、娘に霊と命を与えてくださいました。主イエスはこの奇跡に先立って、娘の父であるヤイロに言っています。「畏れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」大切なことは、信じること。主イエスの言葉を信じることです。ヤイロに向けられたこの言葉は、私たちへの言葉でもあります。
世の中には、信じないと分からない真理があるのだと思います。少し厭な言い方かも知れません。真理は真理であって、本当に真理の名に値するなら、信じようと信じなかろうと客観的に真理であるはずだ、とも思います。信じないとそれが真理であるかどうかが分からないなどと言うのは、逃げではないのか?
ここにはもう一人の女が登場します。12年間、出血が止まらなかった。彼女はこれまでどんな医者にも治してもらえませんでした。ところが、主イエスの衣の裾に触れると、癒やされました。これも不思議な出来事ですが、彼女が自分の肉体で経験した奇跡といいう意味では、客観的な証拠のある『真理』と言ってよいでしょう。しかし、話はそれで終わりませんでした。主は誰が自分に触れたのかと探し始め、ついに彼女は恐ろしくなって名乗り出て、ありのままを話すことになります。つまり、客観的な真理、この体をもって証明された真理だけで話は済まなかった。彼女はイエスの前に出て、問われたのです。私に触れたお前は、何者なのか、と。
真理は客観的であるはずだと言いました。しかし、主はそう言ってのける私に問われます。お前は何者なのか。私に触れようとするお前は誰なのか。真理は、ただそこにあって輝いているのではなく、私たちに迫ってきます。私たちに迫り、信じることを求めます。だから、イエスは彼女に言います。「あなたの信仰があなたを救った」と。私たちは、今朝、私たちに問うてくる真理、イエス・キリストという真理の前に立たされています。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...