2020年5月2日土曜日

2020年5月2日(ルカによる福音書8:22〜39)

ルカによる福音書8:22~39
「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸へ渡ろう』と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、弟子たちは水をかぶり、危なくなった。それで、近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、このままでは死んでしまいます』と言った。」
これは、私たちの体験することそのままです。私たち教会という小さな舟は、主イエスに促されて湖の向こう岸を目指して船出しました。そこに突然襲ってくる激しい風。フナの中は水をかぶり、乗っていた弟子たちは死の恐怖におびえる。ところが、主イエスは寝ておられる。肝心の主イエスが頼りにならない。そこで、弟子たちはイエスに訴えます。「先生、先生、このままでは溺れて死んでしまいます」、と・・・。
私たちも突風に悩まされ、水をかぶって危ないとき、主イエスに祈ります。ところがその祈りがなかなか聞かれない。状況が改善せず、恐怖ばかりが増していく。イエスさまは、どうして寝ておられるのでしょうか?私たちのことなどどうでもいいのでしょうか?
弟子たちは、主イエスは、あの舟は一体どうなったのか。「イエスは起き上がって、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた。」主イエスは、弟子たちに応えて起きてくださいました。風と荒波を鎮めてくださいました。
弟子たちや私たちから見ると、イエスさまは嵐の中で寝ていて、ちっとも応えてくださいません。私たちのことはどうでもいいのか、と思ってしまう。しかし、聖書を読んで気づくことは、主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問うておられることです。本当に寝ていたのは、主イエスではなく私たちの信仰の方なのかも知れません。
私はこの一週間、雑誌に原稿を書く仕事をしていて、使徒信条を扱った本を何冊も読みました。それを読んでしみじみ感じたのは、信じるということの素晴らしさです。信じ、望みを持つことは尊いことです。嵐の中の小舟に乗っていれば、今しか見えなくて当然です。しかし、イエスを信じれば、確かにここにイエスがおられるという事実に気づきます。イエスは寝ているようにしか見えません。何しろ、私たちにとっても主イエスはこの目で見ることはできず、祈りが聞かれている実感もわかない状況はいくらでもあります。しかし、主が確かにここにいてくださることに気づくとき、私たちは信じることの素晴らしさを知ります。この方は、水も波も風も従い、悪霊にも権威を持つ神の子です。私たちはイースターをすでに迎えました。復活したイエス・キリスト、神の子でいらっしゃるこのお方は、どのような嵐をも鎮める権威を持っておられます。そのことを信頼するとき、私たちに望みの世界が拓けます。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...