2020年7月23日木曜日

2020年7月23日(マタイによる福音書24:29〜51)

マタイによる福音書24:29~51
20年くらい前になんとかの大予言問いかいう、怪しげなサブカルチャーがはやったことがありました。それ自体は愚にもつかないような話ですが、世間の終末的な厭世観は、あの時代の「世紀末」という言葉と共に高まっていました。それは今ここに来て、あの時とは比べものにならないリアリティを持って高まっているような気がします。この世界がこれから一体どうなっていくのかは誰にも分かりません。コロナウイルス自体と人類との関係も分かりませんが、この小さな、目に見えないものをきっかけとして世界中で露呈している社会の崩壊がどこかで留まるのか、それとも世界の形が保てなくなるのか、全く予想がつきません。
新約聖書が書かれた時代も、激動の時代でした。聖書の部隊になったユダヤの国は、まさに崩壊の時期を迎えていました。この時代にこの国家は崩れ、第二次世界大戦後まで、この国の民は離散したままになりました。さらに、この福音書を書いている教会の状況は、崩壊しつつあるユダヤ社会からの迫害は日増しに強くなり、まさに、国にも社会にも頼れない状況にありました。文字通りに終末的な状況にありました。
そんな状況の中で、彼らは主イエスのお言葉を思い起こし、その言葉を今自分たちが聞くべき神の言葉として聞き直したのです。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」その言葉は真実です。生まれたばかりの教会にとっても。そして、私たちにとっても。
ここには終末の事柄が書かれているようです。しかし、どんなに悲惨な状態で世界が滅びるかということが主題ではありません。ここでの主旋律は、主イエス・キリストが再び来られるという約束です。「その時、人の子の徴が天に現れる。そして、その時、地上のすべての部族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」今、この苦難の時代に生きる私たちは、苦難をただの苦難として苦しんだり、なすすべもなく諦めたりしています。しかし、もっと本質的に時代の意味を捉え直すと、私たちは今、キリストを待っている。キリストを待ち望んでいるという事実こそが、この時代の本当の意味です。
私たちの今日一日の営みも、キリストを待ち望むための営みです。キリストをお迎えするための準備です。準備の一日へ、出発しましょう。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...